火曜日, 7月 31, 2007

車のなかで

静岡にて車中泊。
樹海はもうすぐ、なんていやだが、何かをケチったわけではなく、どこかで取り組みたかったんだ。窓を開けて夜風を入れて、星を見ていた。森の向こうに高速 道路が走っているようで、空が薄明るい。山奥なのに残念だ。木製のサッカー台で遊んだのは一年前以来、僕たちは山のふもとで寝る。カーナビは何も言わな い。

月曜日, 7月 30, 2007

大きな岐路

祭りのあと、テレビをつけて驚いた。
自民がこんなに負けているのをはじめて見た。
負ける要素はたっぷりあったので、やはりなと思いながらも、こいつはすごい。総理は続投を宣言したが、厳しいはず。あの選挙は大きな岐路だったと語られるようになるか?!
逆に何も変わらなければ、国民の選挙離れが更におこってしまうのではないかとテレビで懸念されていたが。
目が離せない~。こ、こいつはまるでゲーム?

日曜日, 7月 29, 2007

おいでん

美術館を出たあと、豊田駅にて「豊田おいでん祭り」で踊り回っているのを見た。
おいでん みりん おーどろーまい
が 18年間エンドレス。
人ごみのさなか、伊藤氏と合流し 踊らずやビール頂く。
それが土曜の夜。サッカーの歯痒い負けを惜しむ。(シャレではない)
日曜は面子が随時入れ替わりつつ、バケツのパフェや植物園に足漕ぎボートで周遊した。
そうしてまた戻ってきて、おいでん祭りの花火大会へ。人の多さは昨夜の比ではないくらい賑わっていた。それでも近くで、すごく大きい打ち上げ花火だ。視界は花火ひとつになる。
ドン!ドン!と響く。
最後のスターマインは空が真っ白だ。拍手喝采。見上げる人々の顔も、パッと照らされた。

土曜日, 7月 28, 2007

ここは宇宙の中だから、宇宙を見ることができない

豊田へ。
松澤宥をめぐる常設特別展「宇宙御絵図」と、その関連企画の鼎談を見た。
河原温の「百万年 未来」(1980-95)があった。
同じ部屋に北山義夫。
高い壁には滅亡を掲げる松澤宥の言葉。
「宇宙見えず」という確信は、宇宙を描かせる。

鼎談では「プサイの部屋と私」という題で、松澤宥の生家にあるという、それ自体が作品のような部屋を中心に語られる会だったが、段取りより気持ちが先行している展開で、なんだかついていけず、前半 寝てしまった。こういったトークイベントなどは、あまりに司会者が紋切り型な方向に持っていったり、まとまりが無くても辛い。だいたいは、終わりが近づくに連れ体裁が整ってくる。その空気が生イベントの面白さだが。
写真家の安齊重男さんが「シビアな地点で笑いが出せる表現者は凄い」と言っていた話が良かった。

http://www.museum.toyota.aichi.jp/japanese/exhibition/uchu/index.html

金曜日, 7月 27, 2007

憤慨しても叫ばない

横に座ってきた男は小太りで、このくそ暑いのに厚手のネルシャツを着ていて、猛烈に臭かった。
こらえきれずに途中下車をして逃げる。
息苦しくて、気持ち悪く、まだ臭いが残っていて、なんなんだ。
バス停の名前は変更されていたのに、何の案内も無く不親切だったのも酷い。
こんなこと、短絡的なものなのだけれど、もっと憤慨すべきことが数多くあるのだけれど、参ってしまった。
もっと憤慨すべきことは、テレビが伝えてくれる。テレビの中はそんなことばかり。
道端では選挙ポスターの列が、強い陽射しを照り返していた。

木曜日, 7月 26, 2007

いまは奇跡で、できている。

僕は綴る紙を選んだ。
はかない顔にならぬよう
それをつなぎとめるよう。
詩はこれから溢れ、優しさと恐怖は反作用をし合って、何もバイアスをかけなくなるように。
夢がそれだけになったとき、輝きは力になって、見るものになるだろう。
 

水曜日, 7月 25, 2007

負けてしまった

負けて悔しい。冷静になれるかどうかも実力なんだな。暑くて、頭がおかしくなって、大負けをした。ここから行くしかなく。這い上がるしかない。どうして負けたかを省みなければ、これは続く。悔しさをバネにするのは、がむしゃらにもがくことだけではない。なんとか プット・アウトを。そこに実力を。

火曜日, 7月 24, 2007

無花果の天ぷらと一耕

鰻を求めて、辿り着いたのは 無花果の天ぷら。
塩で食べるというのが美味だ。
ミネラル粉末、さらりと溶ける。
言葉も静かになる。
その部屋に行けば、そうなるもの。
帰ってから、ヤングに「一耕」を持って行く。
0079 を見んかいと絡み付いてしまった。0087 生まれなんだから知らないのも仕方ないんだけれど。
それでガンダムを語るなっ!ともなる。
プラモ欲しさに小学生が圧死してしまったというくらいだから・・・。
圧死はせぬよう、息吹き込む。
一番 難しくて、一番 面白いことを続け得るんだ。

月曜日, 7月 23, 2007

付くことであらわれる場

連句において、先の句を受けて繋げることを「付く」と言う。イメージをどう引き伸ばすか、あるいは真逆に返していくのか「付く」ことは重要である。他者の句をどう読むかが試される。
連詩として展開したとき、この要素は「詩は誰に向けて書かれ、はたしてそのように読まれているのか」という現代的な課題を露にするのだった。
「連詩の愉しみ」(著,大岡信/岩波新書/1991)にそうあった。
そして連詩は、皆で一つのテーブルを囲み、長い時間をかけて綴り合うらしい。その場では、詩とは閉じられた孤独空間で書くものだという牙城が破壊される。
個がその極地から あらわれるのだ。
最終章に書かれた「自由な創造性交換の場」という小見出しがいい!

日曜日, 7月 22, 2007

リアルを探して

昨晩、一点入れられたその二分後に、すぐ入れ返した高原のシュートに震えた。PK 戦は見ないというオシムの哲学にも。

それから、映画作家 河瀬直美の対談ドキュメント「リアルを探して」(NHK/1997)を見て、そのうちに寝てしまった。
起きてから続きを見る。原一男、福田克彦、庵野秀明らとの対談。
何度 見ても新鮮な対談だと感じる。予定調和では決してない、向き合うことによって探りだしていく真っ直ぐな対談だ。
続けて同じく河瀬直美を取材したドキュメント「生きたいから撮る」(NHK/2002)と、今年、カンヌ受賞後にスタジオパークに出ていた回の録画を見た。
取材に答える姿を通して、生きる時間によって培われていくものがあった。
次は映画を通して、人のそれを見つめたい。

夕食にはチャーハンをつくった。昨晩のカレーをつくるときに余った野菜を用いて、サッとモグモグ。
少し外を歩いて、さあ探しに行こうと背伸びをした。

土曜日, 7月 21, 2007

Lights in the Dusk

バジルのスパゲッティで体内を殺菌。書店を巡って、読欲を再構成。
千種から今池では、いつも背筋を伸ばす気持ちになる。

シネマテークでお昼のプログラムを鑑賞した。
「街のあかり」(原題, Lights in the Dusk/監督, アキ・カウリスマキ/2006)。
かくもどうしてこう男は愚かなのか。
女は優しい。
男は朽ち果て続けるのを、ただずっと黙っているだけ。
女は賢く、生きようとする。
生きさせようとする。
ようやく、最後に、男は死なないとは言った。
「ここでは死なない」。
北欧の渇いた町並みと風に吹かれ、男は煙草を吹かすだけ。女も常に吸う。
天才と野良犬は、紙一重の男達は殴り、許し合うことのないまま。もし殺しがうまく行っていたら、男は更にどん底だったのであるから、男は何も分かっておらず。
・・・原題の「薄明かりの中の光り」で呼びたい。
カウリスマキの言葉は、本当にそのままの姿で示されているから。
小洒落た装飾や、隠喩ではない。

帰宅してカレーつくる。自転車でひとっ走りしてエビスビールを買ってくる。
猫の鬱の餌を切らしたので、コンビニで猫缶も買う。
映画のように、黙ろうと思ったが、私は煙草を吸わない。

http://www.machino-akari.com/

金曜日, 7月 20, 2007

選挙から

原発を、やめること。
選挙で誰もそんなことは言っていない。
各党の政見放送を見ていたら、党員一言紹介や、Q&A形式の寸劇など、お遊びパフォーマンスだった。良い事しか言わないのだから。
レースとしては面白いが、まるで家電製品の競合みたいに思えてきてしまう。

本当にこの選挙が大きな岐路になるのか?

木曜日, 7月 19, 2007

原発など

原発を、やめることはできないのか。
電気の使用量を制限するようなことをしたら、経済は滞ってしまう。
それでも国が止めねば、止める手だてはないと思う。
今回の地震で、完全にセーフティな原発施設など無いことが明らかになった。
これから大丈夫ですよということが貫かれて、ほとぼりが冷めれば、誰も騒がなくなるのだろう。
恐ろしい。
なんなんだこの有り様は・・・。

水曜日, 7月 18, 2007

家に帰れ

この建物は残り三分で爆発しますと警告が流れても、なんとか脱出できるのが SFものの常で、そのように、どんな山奥からも帰ってきた。バスは四十分後に来ると書いてある。コンクリのブロックに腰掛けて、自動車の排気ガスをまともにくらう低さに顔をやり、呆れ果てていた。バスが迎えに来てくれて、今日は打ち止めだ。いつか帰れなくなるときがあるのかと想像しても、車両に乗り込んでしまうと後は何も見えない。建物も過ぎ行く風景に過ぎなくなる。落下するコロニーは宇宙の塵と化す。乗組員全員が脱出できた。有害な未知の生命体をコロニーごと吹き飛ばすことができた。そんな設定で、今日もやれたわけか。山奥から山奥へ、なんとか家に着く。嫌いな番組は「田舎に泊まろう」(テレビ東京/2003-)。仕込みか何か知らないが、田舎でも息倒れはあるぜ。「田舎に泊まろうとしてのたれ死のう」とか「漫喫に泊まろう」という肉迫したドキュメントが見たい。芸能人が田舎から去るとき、コロニーは落ちた。ロケバスは現実に帰る。帰る先には、ロリヲタやチーマーや援交ギャルや天下り官僚が生き延びている。とても元気だ。顔が青白い。田舎こそ閉鎖的。わざわざ田舎に泊まりに行くな。家に帰れ。家に。

火曜日, 7月 17, 2007

古書センターと構造体

「古書センター」という名前は、どうも公的な響きがある。民間のチェーン店なのだろうけど、出先で見つけると ついつい寄ってしまう。黄色と青のチェーン店より硬派な品揃えだ。ワゴンセールのような掘り出し物はあまりないけど。
雨に降られたあと、じっくり物色。

それから広場にあった構造体。
時間ギリギリに通り過ぎた町並みと、見上げてた。
「古書センター」からはしごをしていた。

月曜日, 7月 16, 2007

artificial paradise

橋を渡れば、あつらえた楽園。
帰りには何も言わない。
メメクラゲに刺された後にだけ、本当のことを言った。不利になっても話したかった。
夢に見そうなくらい、憧れた暮らし。庭いじりをして、風呂場で足を伸ばす。
砂浜では場違いながら、行き交う子犬を追いかける。
ホームに並ぶ僕たちへ、笑い返してくれた。
僕らは廃墟をも待つだろう。
帰りも、同じ橋を渡ったのだ。

日曜日, 7月 15, 2007

ヤーチャイカ

NHK教育で ETV特集「いのちをうたう言葉 ~詩人 谷川俊太郎・覚和歌子~」を見た。
スチルカメラの画像と詩の朗読による新しい映画制作を中心に、二人の詩人を追って行く番組だった。
覚和歌子の詩「ヤーチャイカ」を原題に、映画は構成される。「ヤーチャイカ」とはお囃子か何かかなと思っていたら、1963年に人類で初めての宇宙に飛んだ女性飛行士 テレシコワが宇宙船から通信時に言った言葉で、ロシア語で「私はカモメ」になる。これはテレシコワのコールサインが「チャイカ(カモメ)」だったので、宇宙からの第一声が「ヤー(私は)チャイカ」になったものだという。詩人はこの言葉を受けて綴っていたのだった。
テレビ画面はそのエピソードを説明する際に、当時の宇宙からの映像を流した。
二人の詩人の仕事には、様々な課題が存在していて多くの感想を持ったが、テレシコワの映像が持つ 言葉の存在感に圧倒されてしまった。
空の上から「ヤーチャイカ」と言う声、荒れた通信画像のマッチングは強靭な映像詩だと見えたのだ。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0715.html

http://www.youtube.com/watch?v=iBvl9qI81-o&mode=related&search=

土曜日, 7月 14, 2007

alternative space artfeti

アートフェチで伊藤文さんの個展「Island of wrist」と、加藤優一さんの個展「曖昧な記録」を鑑賞。
一階は伊藤さんの個展で、小鳥が踊る"ように見える" 作品が豊かなイメージを内包していた。ここでの "ように見える" が重要なテーマだと思う。イメージのはじまりがそのままある。小鳥への視線がそのまま。
加藤さんの個展は、絵画と立体による静かな構成。封印されたうごめきが、向こう側で光っているのを見た。

オルタナティヴスペースで複数の展覧会を同時開催するというのは大変だろうけど、見る方としては楽しい。場自体が元気な印象を受ける。
近くにメイドカフェも出来ていたので、サブカルスポットとして盛り上がるよと冗談混じりのマジを言った。

http://artfeti.main.jp/EXHIBITION.html#next01

金曜日, 7月 13, 2007

ポテシュート

日本のサッカーには、良くも悪くも「キャプテン翼」(作,高橋陽一/1981-)の影響で、ゴールとは、ドライブシュートやタイガーシュートのようにパワーで決めるんだという深層心理が根付いてしまっているのではないか。

昨晩放送されていた U20 日本×チェコでの PK戦で、ラストに決められたシュートは、地面を転がるポテシュートだった。実際には高度な技巧や速度がかかっているのだろうが、テレビ画面で見る限りはポテシュートだ。
緊張感で力んでいるキーパーに対して、コロコロとボールは入って行く。
その瞬間に実力と余裕の違いを感じるのだ。

今晩は日本代表が戦うアジアカップ、日本×アラブ(UAE)の試合があった。
試合後半、中村俊輔がゴール際の接戦で放ったポテシュートに感動した。
惜しくもキーパーが止めたけれど、いままでの日本戦での瀬戸際はどこかに強く蹴りだしてしまうような、そんなイメージが強い。
周囲に囲まれながら、速い動きの中で焦らずにポテシュートを出していくのは至難の技だろう。
どうしても強く押し込みたくなる気がする。
ポテシュートの後に解説は「キーパーを誉めてあげたいくらいですね」と言った。
その中村俊輔は、フリーキックでがっちりシュートも決めている。
高原のシュートも華麗だった。
試合には勝ったが、UAE の執念も恐るべしであった。

キャプ翼で、ポテシュートで決まるゴールはあるのだろうか?
ポテシュートを放てるかどうかで、深みがまったく違う。

http://annex.s-manga.net/tsubasa/index.html

木曜日, 7月 12, 2007

豪雨と人

日中、瞬時にダークアウト。
豪雨が地面を叩きつけた。
それは何かの罰のごとく。
世界の終わりはこれが隕石か。
いや、雨でも止まなければ脅威だ。
町並みごと転覆だ。
選挙や、大学や、将来や、地デジも。
それだけさらして、屋内へ居残ることができるか。
正当化する思考など、原始人にはあったのか。
こんな豪雨に見舞われたときに、避けようとはしただろう。
知恵は自らを守り、前に進ませるものだ。
原始人に知恵の概念が育まれたとき、
原始人が終わったのではないか。

水曜日, 7月 11, 2007

プシャーン

グリーンに漬けられた鴨は決して怯えていない。
堂々と東の国で差し出した。その身を。
飛行機ではなく船でやってきた。
時間ばかりあって、お金が無かったから。
その間ずっとグリーンのなかで、
ぽこぽこと気泡を出しながら
国があるということを思い浮かべていた。
鴨には国をイメージするのがたいへんなことだった。
大学の研究では、鴨の脳にはそれを認識することはできないとなっている。
またもや男の蘊蓄が飛び出し、
テーブルにはやっと言葉がぽつりぽつり。
それから、男と女の胃袋のなかで、
グリーンを放つ。
鴨は、自分が鴨であったことを胃液に任せたが、
国のイメージだけは手放さなかった。

火曜日, 7月 10, 2007

そんなもの、ちっぽけなもの、respects もの

降り続けていた雨が、より散々たるものに思えて。
コップ数杯分の水をこぼす。
ラーメンには卵ひとつ落とす。
励ましも、侮辱も、暴露も、みんな言葉は常に「ということがあった」と形骸化させる力を持っている。だからこそ、信じられよう。それが本当の正体ではなく、言葉だけでしかないから。
こう書いてみても、実際は呑気にかまえている。
傘をさして自転車をこぎ「怖いんだ」と言う。
遅くに、野良猫が部屋の外で鳴いていた。
か細い声で、子猫のように思えた。
猫の鬱は起きてきて、キョロキョロしていた。
でもすぐに体勢を直してゴロッと寝直した。
もう明日になれば忘れているだろう。
とてもちっぽけなことだ。

「サラリーマン NEO」(NHK/2006,7)を見て、NHK が NHK自身のスタイルをパロディーにするというのは、任天堂の「メイドインワリオ」(2003)を思い出させる。あれは確か若いスタッフらの手による任天堂リスペクツものだった。NEO もそんな印象。

テレビ消したら、雨も止んでた。
さっき、わざわざ傘さし運転で頑張ったのにな。

http://www.nhk.or.jp/neo/

http://www.nintendo.co.jp/n08/azwj/index.html

月曜日, 7月 09, 2007

たいせいをたてなおしている!

チャンスをピンチに変える無様っぷり。
つ、ついてない展開。目的の一つ前の駅で降りるや、引き落とし手数料を余計に取られるや。ポイントカードを気にし過ぎて、欲しいものもろくに買えず。小銭がやがて大金に、冗談がマジになって、忘れられ、無かったことになって行く。
そんな光景を凝視している。
躁鬱病のように、世界にはあてがない。
「失う」と呼ぶにはたやすい。
それは呼ぶことのできる姿かたちをしていない。微かに、わずか微かに、欠けているの箇所を、見つけて、その欠け方を呆然と見ているのだった。

慌てて、誰かに電話やメールで通信を試みる。
何もせずに座っていられない。すぐに電車は着いてしまう。

今夜は
「たいせいをたてなおしている!」
と表示されていた。

日曜日, 7月 08, 2007

避けるべくしてレモンズレモン

キレートレモン(ポッカ)と C1000 タケダ(ハウスウェルネスフーズ)の互いのいいとこ取りな印象の レモンズレモン(大塚ビバレッジ)を求める。
ちょっちレモン酢が強いけんども、なにやらシャキッとするわー。

相変わらず、猫の鬱を野外でポフポフ叩けば、毛がどんどん出てくる。
すると一瞬、お腹の縞模様が薄く見えた気がしたので、手を止めた。
何食わぬ顔で元気に転がり回っている。
レモンズレモンをもう一本飲むとするか。

日曜はけだるく、哀しいよ。
いつも土曜日だけが楽しく嬉しい。

土曜日, 7月 07, 2007

浮き雲

布団のシーツを干した。
生活のあらゆること。実はそれらにみんないろんなことが左右されている。

「浮き雲」(監督,アキ・カウリスマキ/カティ・オウティネン/1996)を鑑賞。
なんでもないことや、なんでもない生活の時間に悲喜こもごも。
嘘っぽさを微塵も感じさせない夫婦は、床に座って計算し、コーヒーを飲む。
ソファーを持っていかれたから、どうしようもない。
したらしたで、しなければしなかったでのまま。おかしさに愛しむ眼差しがあった。

http://www.leninimports.com/akikdc.html

金曜日, 7月 06, 2007

久しぶりに、少し酔っぱらって

はじめて、クラムボンのライヴに行く。会場のダイアモンドホールもはじめて。
堂々たるグッドミュージック。
最新アルバムの「Musical」(2007)は とても渋くて、チラシにも書かれていたけど「聴けば聴くほど」味の出てくる音楽ばかりだ。
そのとおりに、じっくりと聴かせてくれた。じんわり繋がっていく歌と歌が奇麗だった。
愛や恋を歌ってほしい声に、骨太の演奏が深みを持たせてくる。

「酔っぱらって」という言葉遣いが、いいな。

http://www.clammbon.com/

木曜日, 7月 05, 2007

ンマーイにとどけ

鼻水がとめどなく流れ出て、苦しいところから安息す。
キシリートレモンより C1000タケダかもなと飲み比べる。
昨日とは打って変わっての上天気で、風もあり涼しかったので、布団干しと洗濯に掃除機をかけた。
晩はゴーヤの卵ソーセージ炒めと もろきゅうの豆板醤和えに、ご飯と味噌汁。ンマーイ!

猫の鬱を表に出して、櫛で梳いてあげると、もさっとした毛の固まりが生まれる。
それを手にとって、ふうっと一息で飛ばしてみせた。
「宇宙連詩」がまた新しくはじまるという。とある市で現代詩の公募も。

http://iss.jaxa.jp/utiliz/renshi/

水曜日, 7月 04, 2007

突っ込む先は

泊まりに来た鈴木氏と、家のテレビで「3-4x10月」(監督,北野武/小野昌彦、石田ゆり子/1990)を鑑賞した。
我々は軽自動車でギャラリーに突っ込まない。大炎上。俺はやるしかないんだと呟き、それから搬出に。
俺は何をやっていたんだと床を叩くまでを、語る。
百万年の本を開いた。
壮絶だった。
献辞の言葉は生きている。
帰りは、席を共にした中山氏の車を運転して帰った。

http://www.youtube.com/watch?v=PfanoYQZBVM

火曜日, 7月 03, 2007

クローバー亭

since 大正時代という 洋食屋に入った。店員のおばさんの振る舞いが堂々としていて奇麗だった。テーブルに落ちていた目に見えないくらいのゴミをつまんで床にサッと捨てていた。運ばれてきた食事も素晴らしく、スープに果物のデザート付きと、嬉しかった。
僕自身は生憎の鼻風邪勃発で、俯くだけで流れ出る鼻水をかみきるのに、お手洗いを行ったり来たりでせわしない。ちゃんと食べて薬を飲んで、ついにはヒアルロン酸配合のティッシュまで購入する。
声は優しく、向かうべきところを数え、僕らの正午からはとめどなく続く。
落とすわけにはいかない。
食べきるときにクローバーがあらわれるのを、教え合う。

月曜日, 7月 02, 2007

夜道を向かう

駅前に自転車を置いてけぼりにしてしまったので、いったん帰宅したにもかかわらず、迎えに行った。
着替えて、Tシャツに長ズボンにサンダルになって夜道を何か考えようとしながら。
結局、ストII の新作はどんなのが良いかなぁとか、しょーもない。
辿り着いた自転車置き場で、無事に自分の車を見つける。
それから同じ道を今度は、滑走して帰っていった。
そのときに、いろんなものが戻ってくるような、そこに入っていくようだった。
風はスピードに比例して向かってきて、家はどんどん頭上にずれ込んでいった。

日曜日, 7月 01, 2007

単なるハコではなく

昨晩は +Gallery にて 「 JICPB Cube Gallery」プロジェクトの展覧会、「キューブ・レトロスペクティヴ」を見た。
透明な箱から解き放たれた(?)作品らは、バリアのように周囲の空間を立方体に意識させる要素を持っているように思えた。そこにあったものなんだという前提を知っているから かもしれないけれど、そうすると見えない箱はけっこう大きく感じられる。
「JICPB」という名前は、それぞれの町の頭文字を取ったもので、このプロジェクトは、それらの町の立方体を空間移動していく。
今回の展覧会は、いままでの日本作家(一宮市の "I")をレトロスペクティヴしていたが、webサイトや資料で他の町に置かれた立方体を見ると、この作品がそのままその空間だけワープしていくのだなと、想像できて面白い。
作品を取り巻く環境が、一変するだけで新鮮だ。
いまや当たり前のように行われている美術館での巡回展には、サービスとしての便宜性しか思わなかったけれど、展覧会や作品は、文化や意識をひっさげて 環境を行き来しているんだなと思い直す。
美術館は透明な立方体ではなく、単なるハコで、環境の違いを遮断する要素も持っているけれど、そこを解体していけば、新鮮なロードムービーに映ることができるなと思う。

だとすると、小説や詩などの言葉による表現が環境を行き来することは、一般に翻訳することで行われるのだけれど、それは遮断するものを持っている。どの言語に乗せるかということを、本とか声とかハコとか媒体の違いと同じく捉えることで、単なるコピー&ペーストに取られない構造にできるだろう。

作品の交換はもっとダイナミックなもので、何の感慨も無く行き来するのは WinとMac 間のデータ交換であればいいんでは。いや、それこそダイナミックか。

http://homepage2.nifty.com/cube_project/indexes/cube_index.html