日曜日, 9月 30, 2007

九月の海はクラゲの海だと感慨深く確かめるのはまた一年後

結果的にレコード屋をハシゴした。なかなかうまい頃合いの盤に出会えないものだ。大須の安くて美味しい焼きそば屋さんが、明日から価格改訂をするらしい。 小麦などの原価値上げが直接のそれだろう。明日から十月で、いろんな取り決めや制度がはじまるという。自分自身にも何かを課そう。ひとまず CD はひと月に一枚と決めようか。映画は映画館で見るのは二本くらい?レンタルは何本まで・・こんなこと決めても、いまだけの自己満足に終わるだけだな。結果 的に任せもいけないが、決め尽くすのも本末転倒だ。そう思ったり、感じたこと自体にゆっくり向き合う時間が要るだろう。何かを課すのはそれからでも遅くな い。無意味な自己規制は、気持ち悪い循環を起こす。

晩に、とある打ち合わせ。空気が肌寒いなと思っていたら、面子は風邪を引いていた。はやく寝たほうが良いよと言いながら、終わってから食事に誘ってしまう。我ながらなんとも身勝手であった。

土曜日, 9月 29, 2007

ストロベリーショートケイクス

今週末は雨のようで、洗濯ものができない。本屋を回ったり、スケッチをしたりして日中過ごす。
ブランチのようなタイミングで、たくさんの麻婆茄子を食べる。美味しくお腹を満たす。
それからしばらく何も食べずに過ごした。日が暮れてから、猫の鬱がお気に入りのソファーを動かし、画面の前へ。そこに座って、インスタントの珈琲を煎れ。
DVD で「ストロベリーショートケイクス」(監督,矢崎仁司/原作,魚喃キリコ/池脇千鶴、中村優子、中越典子、岩瀬塔子/2006)を見た。

四人の女性はそれぞれの性格を以て、人生の象徴を抱えている。関わりと心情が丁寧に描かれるこの情景は、物語の情緒に溢れていて美しい。彼女たちは若く、 しぶとく素敵だ。僕はトマトをもぎとる手を持った、白髪の恋人になりたいと思った。愚かなことに喜んでいては、ああはなれないだろう。

煙草を吸いたくなって、ビールを飲みたくなった。
小雨の夜道をコンビニまで歩いた。

http://www.strawberryshortcakes.net/

金曜日, 9月 28, 2007

受け取る

玄関先に宅配の不在通知票。説明書きを読むと、再配達の時間指示以外に最寄りのコンビニで受け取りをするサービスがあるようなので、試してみる。ネットに 不在通知番号などを入力すると、処理と完了のメールが送られてきた。これなら帰りが遅くても大丈夫だ。コンビニとしては、こうしてまたひとつ人を呼ぶ要素 ができたわけで、これは公共料金の振込と同じく当たり前になりそうな気がする。僕もその思惑通り、荷物の受け取りと同時にアイスクリームも買った。
レジ横で、取り下げられずに並んでいるスポーツ新聞を横目にした。

店を出ると、女性がひとり 後ろ向きで カップラーメンを食べていた。地面に座り込んで、弁当類を自分の周りに並べている。自転車の鍵を開ける僕に気付くと、背中を少しまるめこんだ。
この九月の終わりは、暑いような、寒いような。その斜度を持ってる。
ひとつずつ、受け取る。処理ではなく。
アイスクリームは林檎味のスーパーカップ。
そして台所のシンクを洗う。

木曜日, 9月 27, 2007

形式によって

君は図書館で調べもの。
君は美術館に髪の毛を運び込む。
君は空港であくびをした。
取り乱しちゃって、慌ててスッ転ぶのはだれ。
僕はもうそんなことはしない。
僕は巻き煙草の作り方をまた教え直してもらっている。
猫の鬱は昨日に続きゴキブリをしとめた。またよく寝ている。
ころころとまるく肥えてきた。
君を憂鬱にさせるものは、夢の中で変容しないだろうか。
僕がそのプールをかき混ぜに行くことはできるか。
幻覚作用ではなく、君は言葉を持ち帰る。
僕は自分の詩の形式を意識している。
形式によって、触れることができそうなものに意識を向かわせている。
君との形式も意識されているのだ。
僕の財布にはいま八十六円しか入っていない。

水曜日, 9月 26, 2007

麒麟 田村氏

FBI 捜査官、マクモニーグル氏の透視によって、麒麟 田村氏の生き別れになっていた父親が見つかった。もう マクモニーグル氏の透視も凄いのだが、麒麟 田村氏の「家族解散」エピソードが壮絶過ぎて、それが再会できたということのほうが大きく、番組に見入る。
再会してすぐ、田村氏は部屋から出てきて、テレビカメラに向かい マクモニーグル氏に御礼の言葉と親孝行をしていきたいと話した。
彼の仕事と人生が、カメラの前にあった。
それはとても凛々しい姿だった。

http://www.youtube.com/watch?v=S67gXmyjMgs

http://www.youtube.com/watch?v=ez_TNpFcYOQ

火曜日, 9月 25, 2007

Tension and Compression

緊張と圧縮。
Tension and Compression。
名付けることの強さよ。
それは作り続ける源泉。
あらゆる全てと引き合い、睨み合って。
篠田守男氏の仕事による。
感化と歓喜。
泣きわめくこともすら、この間で向かい、現れる。

http://www.datltd.net/sclptrglry/shinoda/index.html

月曜日, 9月 24, 2007

白ける夢を見ている場合ではなかった

また尾崎豊を見ていた。土鍋でつくった豚汁を食べて、数本の映画をDVD で見て、明日からまたどうしようと呟いていたときだった。「愛は白けるものだ」と書いてしまえば、達観した気分で、それは上に立ったように何かを放棄して いる気がしていた。これは計り知れないことであるが、おそらく、やはりそうではない。白けるものを、白けないように働く動きそのものが愛であると、思っ た。本当はシンプルなものなのに、容易に言葉にすることができない。借り物の言葉にすると、すぐに白けてしまい、愛でなくなる。大切にしようとする気持ち や働きは、いまもここにあって、あなたを生かしている。尾崎豊が何故若くに亡くなってしまったか、知る由もない。彼が唄ったもので、生きていられた人、彼 を支えた人、これから彼の歌を聴く人。大切に向き合う関係は様々だ。これらの尊いものの前で、白ける夢を見ている場合ではなかった。
ここ数日で見た夢は、残酷で、取り返しのつかないことをする夢ばかりだ。

勢い勇んでシャワー室に入ると、髪の毛の固まりがボタボタと落ちてくる夢。
同級生の女の子達のグループ展の搬入作業に偶然居合わせて、何故か大切な古典書を預かるのだが、それを公園のベンチに置き忘れてしまう夢。後からそのうち の一人の子から携帯に確認の電話がかかってきて、それに気付く。僕は大丈夫だよと言いながら、来た道を戻り、ベンチで置いてけぼりにされたその古典書を見 つける。古びた表紙には毛筆で「原始の女」と書いてあった。各国のあらゆる女性と関係を持った男が、絵と文章で何やらを回想した辞典である。インデックス 部分が剥がれて無くなっていた。ベンチの周りには草野球のユニフォームを着た学生が集まっていて、僕は彼らをかき分け、それを手に取ったのだ。グループ展 はうまくいったのだろうか。確か彼女たちが展示を行う部屋の向かいは、知り合いの作家さんがビデオインスタレーションをしていて、僕が見に行ったときに画 面が暗い気がすると言ったら、全部の電源を落として再起動しはじめた。するとさっきより明度が上がって、ちょうどいいくらいに床が照らされた。作家さんは そうだねと言いながら、脊髄のあたりを ぽりぽり掻いていた。

日曜日, 9月 23, 2007

気高さだけ、捨てないで

声を重ねて、震わせるにはどうすればいいかを試行錯誤する。ハウリングではなく、美しい調べになるように。声と言葉の関係もまた表裏一体で、これを言うか らには鮮やかに居たい。何かを忘れるでもなく、捨てるでもなく、新しくはじめることを迎え、時間に委ねながら、意志を確かめているには。本当に深いところ でのイメージを掘り起こしてみよう。僅かに、豊かな日の、横たわる関係を思い始めるのよ。

「1%の関係」(詞,鈴木慶一/曲,高橋幸宏/1995)。

http://www.youtube.com/watch?v=HyqKlhxedNQ&mode=related&search=

土曜日, 9月 22, 2007

そんなの

駅のホームで小学生が「そんなの関係ねぇ!」と振りをしていて、お母さんがやめなさいと言っても聞かずに「そんなの関係ねぇ!」と返していた。そりゃあや るだろうなぁと思っていたら、電車に乗り込むと目の前に居合わせた背広のおじさんまでやりはじめたから驚いた。「そんなの関係ねぇ!」向かいの席に座って いた OL風の女性がそれに返す。「そんなの関係ねぇ!」。必死の表情が笑いを超えて、痛ましく見えた。夕方の陽射しを受けて、車両内は皆、拳を地面へ突きなが ら上半身を斜めに身体を揺らしていた。僕は iPod をかけてやり過ごそうとしたが、次の駅で入ってきた乗客までもが 皆一様に「そんなの関係ねぇ!」だったのには絶句してしまった。誰もがそれぞれの「そんなの」を持っているのだが、それは「そんなの」に集約される。そし てそれを本当に振り切ることはできるのだろうか。皆目不明だが、いまここで しがらみを無しにする言葉を、言ってしまうことが面白かったのだろう。もはやシラケドリが飛んで行くのを眺めていられるほど、悠長な気はしなくて、拳で断 ち切って、イッチャッテしまいたい。いやあくまでも願望。いやもとい欲望である。これは。僕のすぐ隣で踊っていた女子高生のパンチで iPod からのイヤホンコードが引きちぎられた。すると震えんばかりに全車両内から響き渡っていた無関係意志の讃歌。大合唱となって、電車は真っ暗闇へ突っ込む。 ああこんなのに乗りたくなかった。無念でならない。自分にもしがらみが無いわけではなかろうが、いま踊りたくはない。声をあげなくても、関係は消えていっ てしまう気がしてならない。このアクションで逆に引き寄せて、関係をやり直そうとする叫びなのか。意識下に「そんなの」が君臨する。辛抱たまらなくなり、 ついに僕は・・!
吐いた。
辿り着く。

そんなのは深く関係しているぞなもし。

金曜日, 9月 21, 2007

ファミコンやってディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見てる

「カルアミルク」(詞,曲, 岡村靖幸/1990)が頭のなかで回る。

自分の弱さを見つめる 独白は、隠す事無く明らかだ。

http://www.youtube.com/watch?v=u6EVyxwSo18

木曜日, 9月 20, 2007

むえしつげりしくっふらひへかほはなつふるきぴいりくこうあいょきぼにかゃなちゅめまそにみあきああいにうつこ

なんだか止まらない。
気持ちがぐるぐる。
寝不足だからでしょう。
きっとそうさ。
そうしよう、そうなんだ。
銀のスキンで「あいどんわなだい」を聴きまくり。エレベーターという個室で唄う。
杏仁豆腐のくだりが好き。

陽が落ちてからは、白井良明とボカスカジャンによる Eye Don't Nose で、「大人の悩みに子供の涙」(作詞, みうらじゅん/作曲,白井良明/2006)。

さてさてさて、こんなんは、なんなんだははははい。

http://www.youtube.com/watch?v=ShJUkkHKCfE

水曜日, 9月 19, 2007

目眩

現実に朝がやってきて、電車に乗ってどこかへ向かう。
夕方過ぎには、写真を撮りに、文章を書いて、考えをまとめ、空いたコーヒーショップでお腹いっぱい食べたり。
ここで並べようとしているものは、尽きることのない欲望です。
骨が肉を付け、皮膚をまとっているだけに過ぎず、いつも腹を空かしている。
脳味噌は あっという間に空回り。もうあなたは動物です。
そんな形で、何を書くというのです。
現実に夜を通り過ぎて、また朝が滞り無く現れた。そして電車に乗るのであった。

火曜日, 9月 18, 2007

愛が白けてしまわぬように

昨晩、映画を見て帰ってから、少し前に NHK でやっていた尾崎豊のライブ映像の録画を見た。何気なく、かっこいいなぁ程度に見るつもりが、その正面から唄われる歌に驚き、引き込まれてしまった。
無軌道で破天荒に思われている尾崎像だが、彼が見ていたものはどこまでも現実的だったのだ。

「I LOVE YOU」(詞,曲, 尾崎豊/1983)

I LOVE YOU いまだけは 悲しい歌
聴きたくないよ
逃れ逃れたどり着いた、この部屋

何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで、捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた
空き箱みたい
だからお前は子猫のような鳴き声で

きしむベッドの上に、優しさを持ち寄り
きつく身体、抱きしめあえば
それからまたふたりは、目を閉じるよ
悲しい歌に、愛が白けてしまわぬように


・・・・・この歌の恐るべきところ、それは、彼は既に十八にして、「愛は白けてしまうものだ」ということを見抜いていたことである。ほとんどのラブソング は「私たちふたりの愛は永遠」と唄うものだ。そう唄うことで、力を生もうとする理想的な視点である。彼は違う。彼はそんな幻想を唄っても、本当の力にはな らないことを知っている。ふたりは徹底的に無力で、悲しい歌ひとつで愛も白けてしまうという現実を、さらけ出し、そうならぬようにと願いを唄うのである。 願いに転ぶのも、白けに転ぶのも歌ひとつという置き方も素晴らしい。彼の歌手としての覚悟をここに見る。
この歌で唄われている ふたりは、何も不良カップルだけのことではない。全ての ふたりは、現実を直視すればこそ、無力と限界の前に抱き合っている。
と、書いていて、この文章に白ける気持ちを持つ。
「殯の森」を見て、感覚が解放され、意識が立っているようだ。
「殯の森」は愛に溢れた映画だった。
愛についてを語ることができるか。
無下に悲しいことを綴ってはいけない。現実故の言葉を見つけられるか。

http://www.youtube.com/watch?v=8PBupJw1VQA&mode=related&se

月曜日, 9月 17, 2007

殯の森

「殯の森」(監督,河瀬直美/うだしげき、尾野真千子/2007)を見た。

誕生日会の場面から、おろおろ泣いた。本当にそこに居合わせたように感じられて、共に森へ入っていった。
美しく、強い映画である。

http://www.mogarinomori.com/

日曜日, 9月 16, 2007

美しき天然

雨を逃れてモーニング。
丁度いい感じで解散し、眠気にまかせて夢を見た。

夕方過ぎまで休み、夜に岐阜の金華山ふもとへ。
ORGANデザイン室 主催の「お月見ライブ」を見る。中庭のある旧日本家屋に人がひしめき合い、料理とお酒を交えて、中庭向こうから音楽が演奏されていた。浴衣姿の人が多く、暑いわと言いながら楽しんでいた。
ラタトューユを食べながら、What's GO IN ON を聴いた。中学生のときに、美術部の先輩からカセットテープを借りたなと思い出した。オフコースがライブでカバーしていたやつだ。いつも寝る前にそれを聴いていた。

福岡から来られていた ちんどん屋 鈴乃家さんが素晴らしかった。南京玉すだれの楽しいことよ。
ORGANデザイン室メンバーらによる ちんどん屋も わいわいと演奏しながら登場して、ステージ上はぎゅうぎゅう詰めで楽しい。
「美しき天然」(曲,田中穂積/1905)の演奏が素敵。

それから、我々の姿を天然として迎える。
素敵だよこれと、伝えるのを続ける。

http://tenkirin.exblog.jp/6943395/

土曜日, 9月 15, 2007

凝視の都市

金曜の夜、カフェ・パルルにて 韓国人作家 ジョン・ジョンジュ氏 のアーティストトークへ向かう。都市の内と外を同時に撫でる作品。目は光と影の前に座る。

+Gallery 企画による展覧会で、同じく韓国の美術評論家 カン・スミ氏も来日し、クリティカルクリティックを話されていた。終了後、宴に同席させて頂く。
ビデオプロジェクションされた都市は装飾を脱ぎ捨て、骨身になろうとすることで、その名前だけを残していた。

土曜「凝視の都市」展、オープニングへ。
私たちの空間は暴かれる。ずっと、何も無いと思われる時間でも。

カン・スミ氏に bnap05-6 のカタログと作品ファイルを差し上げ、見て頂く。取りこぼさずに見て頂き、ありがたし。
福岡氏もスイッチ入り、以後の お好み焼き屋と、戻ってラウンジでまた飲む。
本気のウイスキー登場に一同興奮。
それから更に遅くに、ジョン氏が作品撮影をするというので、その鑑賞者エキストラとして、皆でフリをする。
でもフリではなくなってきて、都市と画面を覗き込んでいると、作家が撮影に熱くなってきているのが伝わってきた。
たとえ言語が拙くても、本当に感じているかは伝わるんだよ!とまた熱弁。
とかなんとか朝まで。

http://homepage3.nifty.com/plusgallery/
http://www.jjju.com/

金曜日, 9月 14, 2007

feel is real

生真面目な言葉は、そのまま声になっている。
誰彼も無言で涼むビルをくぐり抜け、がらがらの部屋を思った。
そこにパンツ一丁で横になり、骨だけになったらばと思う。
すやすやと眠り、せっせ せっせと働き、じんわり感じるのを待ってる。
年を経ても、声は変わらない。
「夢で逢えたら」(歌, 吉田美奈子/詞・曲, 大瀧詠一/1976)。

http://www.youtube.com/watch?v=NkiwWVgz0Ig

木曜日, 9月 13, 2007

でもそれは「逃げちゃだめだ」であって、「僕はここにいていいんだ」では無かった

マンモス大学の中庭で、詩についてのオープンディスカス。そののちに自己披露と実現の違いを考え、終電で帰ってきた。意識はうごめき続ける。昨晩はミチク サに 2Lのお茶を買って行った。同時にエヴァのレボルティックも。ザッピング夜話は尽きぬことなく、そのまま朝まで起動しっぱなしで仕事へ。眠気覚まし資金投 入し対応し乗り切る。

悲しいことはネタじゃない。
やむにやまれないと僕は聞いた。
「こんなことになってしまったけれど、これで詩が書けるからいいじゃない。」
後日、実際に僕も含めて、そのことを書いていた。
でもそれは「逃げちゃだめだ」であって、「僕はここにいていいんだ」では無かった。

ビール瓶や皿をさげてもらう。
我々は、手を叩きながら、我々の拍手の音を聞く。
白い本に言葉が書いてある。
「私は詩で人を幸せにしたい」。

本当は悲しいことなんて忘れてしまいたい。
でも忘れてしまったら、もっと悲しいじゃないかと思う。
本当は自分がいちばんいいところにいたいだけで、セカイ系の極みに酔っているだけだ。
本当は世界の果てしなさの前で、名もない一匹のヒトに過ぎぬ。
それがビールなんぞを飲み、ああだこうだと憂いているのだ。
このうごめきだけが、人である悲喜劇だ。
正しいことのような「逃げちゃだめだ」は一方的な言葉で、
そのままでは辛過ぎる。
「僕はここにいていいんだ」は、とても通って聞こえる。

水曜日, 9月 12, 2007

忘れなくてはいけないと覚える

水に濡れた文字を
油にまみれた手で記す
一ヶ月前、原動機付き自転車はY字路でこけた
何もかもが終わってしまうというのは
どういうことを指すのだろう
明らかな言葉に会えぬとも
受光体は動いてくれた
走ってウインカーを修理した
手をよく洗い
文字を見返した
私をとびこませた文字がある

(携帯電話で2007年9月11日付の日記を読む)

火曜日, 9月 11, 2007

テロルが焼き付かせたもの

テロルが焼き付かせたもの。瞬間の絵を黙すとき、少しらくになったあなたの心は、何のせい。すべて私のせいではなく、私のせいだ。テロルは私の前を通って 行った。世界は一生を懸けても回りきれず、憎しみと一生向きあうのはいやだ。それをらくにさせるのは、かぶせ合いではない。自由の塔など何も自由ではな い。がんじがらめのままで、新しい戦争と呼びながら、世界を一生懸けなくても回れる程度にしていっている。
ずるずると時間だけが過ぎていくようだ。
若者は いい加減にしろよと思って、車を爆発させるのではない。とてもとても悲しいのだ。
テロルが焼き付かせたもの。三つの数字の意味が変わり、グラウンドゼロという言葉も利用され、目に見えぬテロルがうようよと蔓延っている。第一次、第二次 大戦時など、どんな有様だったのか考える。いまみたいなリアリティで回っていたのではないかとも思う。しかし気が遠くなる。私たちは、いずれまたこの日の ことを歴史の教科書に書くことになる。テロルが焼き付かせたものは、何故このように悲しさが溢れていたのかを書くことになる。それが伝わってくれるだろう か。

月曜日, 9月 10, 2007

She laughed.

頭突き。
これは、
この流れ落ちるものは、自ら引き起こした流れだ。
はじまりの一行で決まる。
やるしかないという声で決まる。
帰り道は夕方を通り抜けて、夜にしか使わない言葉へ。
行くような。
所信表明から書くのである。

日曜日, 9月 09, 2007

海だけがないということ

「名称未設定の手紙」をよく手に取る。light note というアーティストユニットが発行している写真と文章による定期刊行のフリーペーパーだ。昨日ももらってきた。
紙切れ一枚を積み重ねるだけで、深いことになるのを思う。
その、light note で文章を書いている 伊藤正人氏の小説がある。
少し前に、読書感想文を書く。

八月の恐ろしく暑い晩に、僕は「ひとひらの声」(著,伊藤正人/2006)を読んだ。
ちょうどいろんな我が身の騒ぎが、終息はしないというのを知った頃で、慎重にページをめくった。
本の中の「僕」は「彼女」とマンションの一室にいる。その部屋には彩りというものが欠けていて、外を走り続ける車の騒音と、向かいのビルの同じ高さにある オフィスの灯りだけがもたらされている。文字通り灰色の部屋で、ふたりは毛布にくるまって、孵化するのを待っている。季節は、冬だった。
冬でなきゃ、そんなふうにはならないだろうなと思う。コーヒーも、朝焼けも、そう簡単に彩りにはなってくれない。クーラーも無い部屋で汗だくだとしたら、「邂逅なんだよ」などと、彼女もつぶやいてくれない。
何かを待つには絶好だったのだ。
彼女は僕を導いてくれる。と、「僕」は見ている。・・・と読者の僕は読む。
だがその声は、本当はわからないものだと思う。
わからないからこそ、僕らは海に向かう。
そこで、海だけがないことを知り、その欠落を受け入れる。
聞こえそうで聞こえない声は、欠落している形状から聴こえてくるのではないかと思えた。

「海だけがない」と言う彼女に、「仕方がないさ」とはたして僕は言うだろうか?
きっと、僕はその声を飲み込み、灰色の部屋にいるだろう。
我が身の騒ぎが終息しないことに、読者の僕は叫んでしまう。
聴こえていたはずの声はかき消されて、生まれ変わることもできなくなるのに。
海はおあつらえでも、持ち帰ってくるべきなのか。
「海だけがないということ」を、持ち帰るのに海へ行くってのは、なんて切ないのか。

http://lightnote.blogspot.com
http://royalbluemountain.blogspot.com

土曜日, 9月 08, 2007

セカイ系と呼ばれて

アートフェチにてカトウトクハル氏の個展「欠伸をする度に世界は拡がってゆく」を見る。煌煌と路上を照らすものは、パースがかかった横断歩道の先にあっ た。溢れてくる光は救いではないように思える。あれはただの電灯のはず。コンビニエンスストアの形に白が抜け落ちて、看板も入り口も輪郭でしか判断ができ ない。彼の暗室に溜められた時間が、ここいらの世界だった。

最近覚えたての「セカイ系」という言葉を口に出していた。
「ぼくときみ」が抱えている出来事が、社会領域をすっ飛ばし、そのまま世界の存続に関わってくるという物語を指す言葉らしいのだが、どうもその呼称に批判的な何かを感じてしまう。むず痒いのだ。
「世界」をどう捉えるかということと直結してくる。世界をくまなく上空から見渡し、把握することなどできないのだから、自己のリアリティに基づくしかない。
自殺する若者が増えているという社会問題と、いま降り出した雨に困ったということを天秤にかけ、雨のほうが問題だと唄ったのは井上陽水だったが、テレビの 向こうにだけ世界があるわけではなく、実は「ぼくときみ」がとどうやっていくかが世界に繋がっていくんだよとするのはずっと以前からの主たる物語ではな かったか。
その自己のリアリティのみで世界を把握していくことが特別視され、ときに批判されるとするならば、それもまた何ら新しい認識でもなく、当時の「傘がない」 (1972)への批判と何も変わらないのだが。・・・・どうなのだろう。なんでもかんでもセカイ系になってしまう気がする。この言葉を用い出すバックボー ンにあるものが、僕には気になる。
社会領域をすっ飛ばすということから考えれば、「ぼくときみ」の問題をそのまま世界の問題とし、何のプランも関係も無く、素人の日本人カップルがイラクに 行ってしまうような、所謂 自己中心的で非常識な認識がそこにはあるのか。だが、そのような方法でしか世界のリアリティを持ち得ることはできなかったとしたら・・・、それも、そもそ も貧しい価値観点からはじまっているとも言えるが・・・、この心理を持つ表現を「セカイ系」と呼びはじめることで、人の何かが閉じる もしくは裏返り背を向けてしまうのではないかと考える。
いや、そもそもそういった概念の言葉と対峙するものを、作家は実際に具現化していかなければならないのだろう。

http://artfeti.main.jp/
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-sekaikei.htm
http://iwatam-server.dyndns.org/kokoro/sekai.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012474625

金曜日, 9月 07, 2007

Screaming masterpiece

台風の風が吹いていた昨夜は、シネマテークでレイトショーを見た。
今朝 起きたとき、ここらはすでに上天気で、出歩くのに不自由は無かった。拍子抜けのような面持ちで、一日在宅作業。スーパーから買ってきた大きい紙パックの果汁100%オレンジジュースをすぐに飲み干す。風が止んで、また蒸し暑さが戻ってきている。

そのレイトショーは音楽の映画だった。
「スクリーミング・マスターピース」(監督,アリ・アレクサンダー&イルギス・マグヌッソン/ビョーク、シガーロス、ムーム/2005)。
アイスランドの音楽シーンという軸で描かれた映画のラストは、根底をひっくり返す発言で、その高い意識を受け入れているのが面白い。
・・的とかいうことで音楽を判断することだけでは、アイデンティティーを捏造しかねないだろう。でもそうやって、疑い続けて 開いていくものなのだろうなとも思う。

私が愛について兎や角語りはじめるとき、私が日本人であることは勝手についてくるものだ。それよりも、見ようと目をこらし、聴こうと耳をすますのだ。

http://screamingmasterpiece.jp
http://milanrecords.com/screamingmasterpiece/

木曜日, 9月 06, 2007

また、愛について

私たちの手がこねあげるもの、それは情念だけのものではなく、冷静なものを含んでいる。
私が語り続けるもの、それは後悔だけのものではなく、頷くものを含んでいる。
私たちの行いはそれしか残らないだろう。
やがて、窓の前で、私たちは何処からの風を迎える。

水曜日, 9月 05, 2007

愛について

日々の憂いの、波間に眠る 私たちの本当の音
いま持て得る最高の尽きぬ有り様を
私たちの手で

火曜日, 9月 04, 2007

Air

図書館のビデオ視聴覚ブースにて、小学生の男の子がひとりでエヴァを見ていた。LD で全巻揃っているのだ。しかし、館外貸し出しはしていない。LD を部屋で見ることもできない。他の子たちはアンパンマンとかを見ているのに、彼だけがエヴァを凝視していた。血なまぐさい画面もやがてくるだろう。「アニ メは子どもが見るもの」という大人の固定概念がいまだ横行する公的施設にて、僕は彼の背中を見つめていた。心の中でガッツポーズをする。
いつか、彼を救済する場面が訪れるはず。
悪夢を超えていくことができるはず。

http://www.youtube.com/watch?v=GYxQ6Z4csM8

月曜日, 9月 03, 2007

二本のフィルム

出来上がってきた 35ミリフィルムの一本は、多重露光をしてしまっていた。それも、三つの画面が重なっている。ちょうど一年前、初夏の頃であると確認できるイメージがあっ た。僕がトランクケースを引いている背中が見える。その上に、この前行った常滑焼き祭りの人ごみが重なっていた。現像に出したフィルムは二本で、一本は多 重露光。もう一本は露光せずに写っている。笑っている金沢での表情。36枚と、24枚の束を全て積み上げて、一番上にどの写真を持ってくるかで迷う。多重 露光はイメージが定着していなくて、どうも頷けない。プールでの写真を上にした。青色のゼラチン質のテカリが返ってくる。部屋の片隅、僕らが通り過ぎて いった情景があった。長方形のこれは、アルバムに入るまで、生々しく色と像を持ってうごめいている。
これらの横で、僕は何を語ることができるだろうか。チキン丼と、ピラフで過ごす。いよいよ本当に、言葉と写真に何があるのかをはじめるときだ。

日曜日, 9月 02, 2007

天然コケッコーとヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

「天然コケッコー」(監督,山下敦弘/原作,くらもちふさこ/夏帆、岡田将生/2007)と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」(監督,庵野秀明/声,緒方恵美、林原めぐみ/2007)の豪華二本立てに望む。
チケットを買うときに「天然コケコッコーください!」と間違えてしまった 通称「天コケ」は、人々のあり方、関わりが丁度良い頃合いで落とし込まれている繊細な描写による映画。原作は未読だが、おそらく原作に等身大の感覚を持っ た人物像が出来上がっているのだろうなと想像させる。透き通った田舎がきれいで、そのまま主人公の心持ちに繋がっているというそんな素直な撮り方がいい。 都会っ子と田舎っ子、大人と子供、家族に社会、いろいろ丁度良い頃合いで伝わってくる。

一休みして、松屋でお腹を満たしたのちレイトショーのエヴァへ。
前半、Zガンダムリメイク版を思い出して嫌な予感に触れるが、それは杞憂だった。目映い光と音、ギミック、テンポ、総合的にこれは映像の感動、手に汗握 る。堂々たるエヴァを見せつけられた!・・・・続編があるという歓びが、当分訪れる!なんと惨く美しい、戦いのはじまり。身体と心が向かい出す。

http://tenkoke.com/
http://www.evangelion.co.jp/

土曜日, 9月 01, 2007

最低同盟の挑戦

35ミリのフィルムを、安くプリントしてくれる店も減ってしまった。いまやフィルムカメラのほうが贅沢品だ。デジカメはパソコンに入れたら終わりになる。 プリントを全部することはないから、こぼれ落ちてしまうものが多いように思った。いまの自分は そこを丹念に捉えたくて、わざわざフィルムで出してみる。はたしてどうなるか。

最低同盟親睦会よろしく。アートとはコンセプトとはなんぞやだろう続く一夜。一夜と言わずまだまだ続くよどこまでも。
はたしてどうなるか
に向かって、
雨に打たれて突っ走る。
ひたすら帰る。
自分のいないところへ。
雨で濡れれば、濡れるほど、自分はこうあるものだろうという気が増してきている。そんな服を着っぱなしで。
自画自賛も甚だしい。
自画自賛の根拠を見れば。
雨を見せつける。
俺はこんなに濡れたんだぞう。
そんなことを言う必要も無い。はたしてどうなるか の前では。そんな安牌は無い。