月曜日, 12月 31, 2007

三匹の犬たちの性格見つめ、そばをずるずる食べました

段ボールを繋ぎ合わせてCRTモニターと、タワー筐体を梱包した。集配所まで持って行く。リサイクル業者に年明けの平日に届くように手配する。布テープをケチらずにぐるぐる巻きにしないと意味が無い。三匹の犬たちの性格見つめ、最後には仲良く眠る。
紅白で視聴者投票の集計時間にまた一曲歌うのはどうかなと思った。阿久悠で納めたんじゃないか。アナログ放送も残り二年。ドントラまであと一年。平成これ にて二十年。ゆく年くる年厳かに。2007年ありがとう。そばをずるずる食べました。犬らはゲージの中で眠り、起きたら人様の布団に入る。

日曜日, 12月 30, 2007

アトリエでの背中

夜中にアトリエへ伺い、多くの絵を見せて頂いた。
何の飾りもしていないそのままのスケッチブックを何冊もめくった。
この夏には美術手帖とみずゑが本棚ごとやってきたという。
僕はアトリエで追いかける仕事を追い続けている。
一瞬で立ち上がってくる姿を求めている。

土曜日, 12月 29, 2007

流行遅れの恋の歌、いまも君は口ずさむ、戦争は終わる、もし君が本当にそれを望むなら

「転々」(監督,三木聡/オダギリ・ジョー、三浦友和/2006)を鑑賞。
まさしく風景の変わる散歩向きの東京百景だこれは。主題歌がムーンライダーズの「髭と口紅とバルコニー」だったことを忘れてて、オープニングでグッとくる。いろんな人は遠いようで近く、似通っていながらもよく分からないまま仲を持っている。あそこでそうなっていればちがったかもねと、甘い匂いは甘いままで過ごされる。そんな絶妙の関係の頃合いが広がりを呼ぶ。小汚いアパートの部屋に、思い出となる遊園地、マンションでは眠る。この町ではみんな焦がれている。切ないものを。

「PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン」(監督,デヴィット・リーフ/オノ・ヨーコ、ジョン・シンクレア、アンジェラ・ディヴィス/2006)も続けて同じ劇場で見る。原題は「The US vs John Lenon.」なので、「PEACE BED」という日本版追加タイトルでイメージするものとは少し異なり、政治的、活動的な側面に照射した現実との戦いを追うドキュメンタリー。やや CG エフェクトがうるさいけれど、赤裸裸に語られるベトナム戦争時のアメリカ・カウンタームーブメントは面白い。チョムスキーも出てた。「Activist・活動家」と「Radical Activist・急進的活動家」の違いが気になる。そこらへんのバックボーンでほくそ笑むことができないのが悔しい。自分の見識不足なだけであるが。また、政府側からの思考なども重ねて全体的に見たくなった。ジョンとヨーコの戦いは活動家的なアーティストであることには変わらず敬意と感動を持つが、映画はいろんな要素を尻切れトンボで編集されている印象。優れたビートルズオムニバスのアルバムもあれば、そうでないものもあるということだろう。だが、この映画をいまのタイミングでぶつけてきているのに何かあるのだろうというレビューを呼んで口をへの字にした。オノ・ヨーコもたくさん出てきている。元旦の朝刊に「WAR IS OVER. If you want it.」と載るかもしれない。

http://tokyosanpo.jp/indexp.html

http://www.peacebed-johnlennon.com/

http://www.theusversusjohnlennon.com/

金曜日, 12月 28, 2007

A teacher runs on this month

年長組がいちばんすぐお酒にやられてちゃいけないと怒られて、横になった忘年会。起きたときに机にあったのは肉のタレを降りかけた白い御飯で、すぐにたいらげられた。
ベックスビールを缶で頂く。ブレーメンからセバ氏が今日着いた。コンビニで待ち合わせをして会ったから、不思議な感じだ。
いろんなものが納められて、だんだん大気圏突入の様相を迎えてきた。年末の日々は かけがえがなくていい。

木曜日, 12月 27, 2007

豊かな国の貧しい政治

「豊かな国の貧しい政治」というコピーのような言葉を思った。これがどんな局面にもあるような気がする。「豊かなテクノロジーで貧しいコンテンツ」、「豊かな食卓の貧しい会話」というように。「貧しい国の豊かな政治」と逆が成り立つわけではない。「貧しい国の貧しい政治」もあるだろう。そもそも政治が貧しければ国が豊かなわけではないとも言える。政治は創造力だから、それが貧しいままで動いているうちは何も変わらないんだ。

コーラにレモン汁を降って飲む。テレビを点ける。電子の光と音が部屋を変える。デジタルの恩恵をこれからも もっと受けるだろう。とにかくビタミンCを忘れないようにとメールが届く。ケータイも忘れない。お金はいつも落としてる。閃きはいつも、絶えず湧き続けるようにと忘れない。

水曜日, 12月 26, 2007

ポップのなかにある実感

J-POP の最前線では、言葉が答えになって歌われることが多い。
答えのままでは白々しい説教だが、耳障りの良い音楽に混ざっていくことで 聴けるのだと思う。そんなわけで言葉と音楽が分離している傾向が J-POP ニューミュージックにはある。
そんなことをアルバム「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」(槇原敬之/2007)を聴いて思っていた。とにかくポップなのだ。答えの先決が早いという印象は置いてみる。
そういう意識から、このアルバムに入っている曲ではないが ダウンタウンのまっちゃんが作詞をした「チキンライス」(作詞, 松本人志/作曲, 槇原敬之/2004)は、実感を基にしていていいと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=o17AP4hRiiU

火曜日, 12月 25, 2007

麒麟 田村氏の戦い

節操の無い番組であることは重々承知だが、やはりロンドンハーツのドッキリ企画には笑ってしまう。麒麟の田村氏に四人の美女がやらせで送り込まれ、いつもモテない彼はメールで四人とそれぞれ食事に誘っていく。数々の寸止めを食らいながらも、もがく姿に手を叩いて笑った。最後は鉢合わせの苦しみを散々味わさせてから、みんな嘘でしたドッキリ万歳と終わる。それが分かっていても、キャッキャ喜んでしまう。彼の思いが伝わってきて、共感してますます好きになった。悔しいだろうな。うう。
それにしても、人をビンボー呼ばわりしたりする仕打ちはデリカシーが無くて、えげつない。親が子供に見せたくない番組第一位というのには納得する。人を見下す落とし方には笑えない。

ああ、田村氏よ。
人の目などに振り回されること自体がおかしなことなんだね。

http://www.tv-asahi.co.jp/londonhearts/contents/backnumber/cur/

月曜日, 12月 24, 2007

チュウとギュウ

豊田市美術館の「ギュウとチュウ・篠原有司男と榎忠」展が最終日。ギリギリで見に行く。榎忠サンタによるパフォーマンスを見逃してしまった。作品は圧巻。エネルギーに満ち溢れていて潔い。美術館に収まりきれるものでは・・きっと、ない。こんなハコは凌駕するマグマがずっと燃えている。
すぐに影響されて、クリスマスイヴの我がアクションは、大胆になってホールケーキを買うことや、バスに飛び乗ることに終始した。半刈りでハンガリーに行っていたチュウさんみたく、純真に意識的なしかめっ面を作り、時は元禄もつれあった男と女に花が咲くと興にのりたいギュウさんのスピードにしびれたのだ。

http://chuenoki.com/

http://www.new-york-art.com/shinohara/

日曜日, 12月 23, 2007

私たちは画面の前で

早いもので個展「沼が無い」も最終日となった。
昨夜とは打って変わって天気が良く、陽射しが温かい。
トルコ旅行のお土産お菓子を頂く。砂糖の中に封じ込められているピーナッツをまぶした練り菓子で、甘くて美味しい。これをアートフェチの面子や、三階で個展をされている先間さんとバックヤードでほおばる。
七時の閉館まで多くの方に来て頂いた。
次回への課題や展開の期待値を沸かしていきたい。
搬出に西山氏、真坂氏に手伝ってもらう。無事に終えて西春へ帰還。
中華料理屋でたくさん食べて、等身大の茂木さんを見る。話されていたことも等身大だ。

個展にお越し頂いた皆様、ありがとうございました。

土曜日, 12月 22, 2007

土砂降りはひとつ、水たまりはそれぞれ

ギャラリーが閉館してから 開店したてのカフェで、男はつらいよアメリカ版のプロットを聞く。
頬づえをついて頷きながらも、付箋に鉛筆で「女」と走り書きされていたのは見逃さなかった。
急に「人間」と飛躍できるほど、僕らはまだ若くない。
落ち着いた夢について、駅のホームで聞く。ここは別方向に延びる路線を同じホームで担うという、迷いやすいホームだ。
手を振って見送る。
帰ってすぐに靴下を投げ、ジーパンを干す。ひどい土砂降りのなか、僕らは小道に入って、水たまりをよけていた。

金曜日, 12月 21, 2007

いまごろきみはどこでなにしてる

遠征に次ぐ遠征を繰り返している まさしくフーテンのノリ。僕は伏見の拉麺屋で鼻水を垂らしながらモヤシを食べてた。「絶対に負けられない」という合い言葉を思い出す。ケータイのメール打つ。辿り着いたときには既に鍋は食い散らかされ、1キロのキムチも空っぽになっていた。爆音で木村カエラが流れている。そのまま踊る。おでんをコンビニで買う。赤髪の店員が病んでいる。そう見る自分も歯磨きをせずに寝ている。亀に噛まれる夢を見るかなと思ったけれど、そんなうまくはいかない。賞味期限切れの廃棄スイーツを皆でぱくついたのは美味しかった。どうしたら胸がときめくのか聞き出せば良かった。異国語の OSX に入った小栗旬に。

翌朝は、裸の目になっていて それを嘆きに走り出した。

木曜日, 12月 20, 2007

息を飲む音から

東京事変の「閃光少女」(詞, 椎名林檎/曲, 亀田誠治/PV監督, 児玉裕一/2007)の PV が爽やかでいい。アイディア、即ち閃きひとつでセンスは光る。さらりと魅せられるものからは、いつもそれを感じさせる。技巧的なことは、みんな隠れて勉強しているらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=Zz_oCwL8hUY

水曜日, 12月 19, 2007

二千七分の二十余回目のクリスマス

クリスマスはなんで楽しいの。クリスマスにはプレゼントがもらえるから。朝起きたら、枕元におもちゃが置いてあるから。足下には猫が寝ていて、丸くなっていて温かい。もらったおもちゃを開けて喜ぼうと階段を降りていくんだ。この頃はそんな喜び方をしないかもしれないけれど、朝をそんなふうにできたら、コーヒーを煎れて、ケーキの残りを出そう。馬鹿騒ぎの合間に、思い出と称して話していたい。キリストに何の感謝もしていないけど、いまを西暦で数えているのだから。二千七分の二十余回目のクリスマスなのね。それがそのまま年末にあるのは意図的なのかな。

火曜日, 12月 18, 2007

梱包用の段ボールで眠るキュレーター

キュレーター長谷川祐子はプロフェッショナルだ。展覧会準備の修羅場にテレビカメラが入ったのははじめてではなかろうか。美術館苦労話みたいな映像ではなく、客観的に撮られたドキュメントには手に汗握る。河口龍夫展にあったインスタレーション設置風景のビデオも面白かった。これはほんの断片に過ぎないだろうけれど、凄まじい現場である。自分の現場をユートピアにするんだ。

http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/071218/index.html

月曜日, 12月 17, 2007

点と線

テレビ朝日50周年ドラマスペシャル「点と線」(原作,松本清張/脚本,竹山洋/ビートたけし、高橋克典/2007)が面白かった。二夜連続放送していたものを録画しておいたので、一気に見る。戦後推理小説の元祖という骨組みの強い原作と、相当に気合いの入った舞台背景、キャストの豪華さが絡み合って、テレ朝が本気で胸ぐらを掴みに来たという感じ。鳥飼刑事と三原刑事がかっこいい。社会の本当の悪を暴いて行くというのはこれが先駆けなのだろうなと思う。陳腐に締めぬ結末に、刑事らの歯痒さを共感した。

http://www.tv-asahi.co.jp/tentosen/

日曜日, 12月 16, 2007

野郎たち・来年は沖縄で乾杯を

南国ドロップスの「チェリーブロッサム」(2006)で起きた。林檎を齧る朝。凍えながら、みんな畳にごろ寝をしていた。もったいないと日本酒をペットボトルに移す。名駅前に見送り、良いお年を。また季節は巡り来るかな。
残留面子で車を飛ばし、ギャラリーやハードオフ、サブカルアングラスポットをはしご。来年は沖縄で集まりたいとわあわあ言う。
何度も同じことを言うのは正真正銘、オヤジ化の現れだった。
個展会場で作品撮影をしてもらってから、合流して入ったとんちゃん屋でもリピートしていた。こんな話題で盛り上がったということを再生。昨晩は覚えていないうちに寝てしまってた。遅くに駆けつけてくれた方の帰り道まで送っていったみたいで僕は何も覚えてない。ドラえもんの「あこがれミラー」は傑作で、しずかちゃんに笑われる野郎たちという とぼとぼ構図を反芻していた。

http://www.youtube.com/watch?v=oOj43C-pEZA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=3loo3xz3x7g

土曜日, 12月 15, 2007

見えないものと見えるものツアー

名駅のナナちゃん人形前に集合というベタな約束。駅前には人が師走らしくごった返していた。この寒いのにやたらアイスキャンデーを口にしているのを見かけると思ったら、すぐそこでガリガリ君の正月用テレビ CM を 撮影していて、キャンペーンとして新しい味のを配っていた。僕らもちゃっかりもらい、美味しいんだけど身体冷やす。
本日は、大学の洋画面子らで小さな同窓会兼忘年会兼誕生日会兼クリスマス会ツアーである。いつもの調子で計画は七転八倒。もとい七転び八起きにするのは慣れたもの。歩いて名古屋市美術館とアートフェチに大須巡りと回った。

「河口龍夫-見えないものと見えるもの-」展で、種子を静かに見る。静かに見る姿勢になる。封印される関係は、そのままにして愛でていたい関係ではないか。化石たちを優しい色でフロッタージュし紙に写した後は、巻く行為を思い出す。
友人が巻いた 一粒だけの音に微笑む。

フェチで個展を見て頂いた後、早めに飲み屋に入って乾杯。七時には三人くらい眠たくなる。財布に向日葵の種子を二粒入れていたら、社長!俺もだった。

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2007/kawaguchi/index.html

http://www.tatsuokawaguchi.com

金曜日, 12月 14, 2007

現代詩の研究自体が現代詩

先日の詩の朗読会では、個展に来てくれた方がその印象を詩にしてくれた。その方はこれから現代詩の研究に取り組むという。すぐにレスポンスを返してくださるその勢いは、とても嬉しい。詩に限らず、作品や表現に対しどう感じているか、どう思うかを返すことは難しいものだ。聞かなくても伝わってくるとどこかで思い、感動を明確にしていくことも必要だと考える。気分めいた感想と印象、批評は異なると思う。だが、それも全て同じ一人の人間から発生していることを忘れてはいけない。理路整然とまとめ過ぎるのも何かを失う気がする。研究は処理ではなく、課題をより広げ豊かにしてくれるのだと読む。現代詩の研究については、その朗読会で多くの方が「現代詩はわからないけれど」と言っていた。その言葉が既に現代詩だとも思える。メタだこりゃ。

木曜日, 12月 13, 2007

Our daily bread/いのちのたべかた

今池シネマテーク、六時半からの回に十分遅れで入る。映画「いのちのたべかた」(原題, Our daily bread/監督, /ニコラウス・ゲイハウター/2006)を鑑賞。

チラシや前情報にあったとおり、何の解説も講釈も無い。言葉というものが一切表出してこない。ただ淡々と食肉工場での作業風景が撮られていく。カメラは不用意なパンをせず、かっちりした構図を持っている。アピールされるサービスではなく、咀嚼する自由がある映像なので、ずっと見ていられる。奇麗な画面は、ただのありふれた日常であるという構造が映画である。残酷に思えるシーンも、映画を以てすれば気持ち悪くなるようなものではない。もっと非道で残虐な映像はたくさんある。

この映画の原題は「Our daily berad」で、訳は「私達の毎日のパン」だが、どうも決まり文句のような言葉らしく「日々の糧」であるという。聖書の言葉のようだ。それが邦題では「いのちのたべかた」となる。これは森達也の同名著書からで、内容がシンクロする点から名付けられているのだが、少しメッセージ性が強くなっているように受ける。それが日本の映画配給会社の戦略だと批判するのもできるが、ここには食べ物に対する態度の違いがあるとも考えてみる。
キリスト教の食事前の言葉は「主よ、この食事を用意して下さった方々と、これからいただく私たちを祝福してください。」というもので、神に感謝と祈りを捧げるが、日本では「いただきます」に全集約していて大きい。食べるいのちへの言葉だ。

http://ourdailybread.at/jart/projects/utb/website.jart?rel=en

http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

水曜日, 12月 12, 2007

年末朗読編

「詩のあるからだ」というオープンマイクの会に行っている。先月は個展準備のどたばたもあって行くことができなかった。根を詰めると、こういった会はたいへんに感じてしまう。オープンマイクだからといって許されるとかではなく、オープンマイクだからこその気楽さができるはず。なんて、詩にまつわる話は、理想めいて聞こえるかもしれない。スレッスレのところで魅惑させて浮き上がっていくか。最低なエゴイストで落胆されるかのふたつにひとつ。
今夜は即興で詩を読んだ。
詩になるようにと向かう動きと、安直な詩になってしまうのはつまらないとする動きとの間で。この形容は、昨夜テレビで見た絵本作家の荒井良二が自由に絵を描こうともがいていたのを、司会の茂木健一郎が言い当てた形容だ。

詩人の水尾佳樹さんが「幸せな年末」いや「結末」だっけかな? を、ぐふぐふと読んだ。笑っているうちに年を越しできるようで、ニャんともハッピー限りなく幸せ。
さて自分は何を読んでいたのだろうか。これを後でまとめるのはちょっくら不毛だからパスしようっと。

http://pocom.at.webry.info/200712/article_14.html

火曜日, 12月 11, 2007

凍てつく夜に進行す

夜道を自転車で突っ切り、福岡氏宅へカメラを借りに行く。同時に晩ご飯まで頂く。冬瓜の汁物が美味しく温かい。展覧会のオープニングパーティで、こういったやさしい味の料理とか出すと喜ばれそうだねと話す。明日も早いので、漫画や DVDを渡し合って十二時に帰る。それから二時過ぎまで自室にて skype で伊藤氏に HTMLのテクニカルサポートを受ける。skype のファイル送信機能の調子が悪くて遅いので、データはメールで送り合う。数百KB に十分も待ってられない。メールだと一瞬。来年の予定について話すが、まだ定まらない。オンラインでの企画のためにはもっとスキルが要ることが分かってきた。

月曜日, 12月 10, 2007

岡田監督!

オシム監督が病に伏されたので、サッカー日本代表に岡田監督が就任した。そのときの記者会見の言葉を思い出し、本当にそうだっ!と強く思う。
「(前略)・・・人生は分からないものだと思いました。1週間前まで全く考えられなかったこと。考えれば考えるほど引き受けられないなあと思いました。ですが、何かやらなきゃいけない、トライしなければいけないという気持ちになった。それで、あまり深く考えずにやりますと言いました。やるからには日本がワールドカップに出るために、やれる全ての力を尽くしたい。これからいろいろあると思いますが、みなさんとできる限り、いい関係を築いて行きたいと思います。」(「J's GOAL」部分)

僕は以前から岡田監督が好きだ。
オシム監督も好きなので、今回の就任はドラマチックに感じる。

http://www.youtube.com/watch?v=kKyNf2gz29Q

http://www.jsgoal.jp/news/00058000/00058271.html

日曜日, 12月 09, 2007

mixi に収拾されない

「mixi なんか無くても、僕らの関係は大丈夫なんだ」
そう言ってみるが、
実際に mixi の恩恵を受けて、こうして会えているわけで、きれいごとばかり言っていてはいけなかった。
ただ、そう言った本心は、僕らの関係が mixi に収拾されることを恐れるからなんだ。あのオレンジ色のウインドウには書くことができない言葉を、僕らは山のように持っている。
電子メールが一般に広まりはじめたとき、敬語を尽くした文面にしなければいけないと言われていたのを思い出す。いまや、メールでのやり取りは当たり前になり、携帯電話で友達と送り合うメールはとてもフランクだ。mixi はそんな僕らの感覚にフィットした。関係をネットで補完しようとする感覚が、これからもっと広がるだろう。それを止めようとは思わないけれど、ネットでは補完できないものが浮かび上がる。
ブログには書きたくない言葉もたくさんある。日記を見せ合うとき、その人を好きになるとは限らない。
個展に来てくれたふたりと、いっしょに駅まで歩いて帰る。近鉄と名鉄の前で手を振った。

土曜日, 12月 08, 2007

大きな塊になっていく

高校の美術部で同級生の友人が来てくれた。久々の再会。もっとゆっくりしたくて、駅近くの店に入る。おもちゃに囲まれたソファーでカフェオレとホットチョコを飲む。ちょっと恥ずかしい。
あれから十年ということになる。やっぱり時間は速い。あのときに覚えた歌を何度もリピートしてる。美術室に居なければ見えなかったものが、まだ自らのなかに芽吹いていくるのを思う。Relation は底知れぬ。あのときのみんなが大人になって、働いたりしながらも、話したりやっていることは同じみたいな近況に嬉しくなって笑った。ただ、転がっている時間は雪だるま式に隠していたものも巻き込み、暴いていき、局面は新しくなってるんだな。こんなことは無かったということは、あったことなのだろう。
作品を発表するということも、いままで自分が転がしていたものと平行に新たに転がしはじめて、いつしかくっつき、大きな塊になっていくようだと思う。

金曜日, 12月 07, 2007

普通というものは無い

アートフェチの特別開廊日で、個展が晩にだけオープンしていた。
会社帰りの方に多く来て頂いた。皆様 スーツとかで格好いい。僕は袖幅が延びて割烹着みたいになった緑のシャツを着ていた。それでも小ぎれいになってしまったよねと友人に言われる。
閉館後、中華料理屋へ集った面子で食べに行く。隠し部屋のような地下室に通してもらったが、カビ臭くて参った。食べ始めたら気にならなくなったけど。
矢継ぎ早にいろいろな話題が挙ったが、自分自身が、見たり聴いたり嗅いだりしている感覚というものは他の人と一致していなくて共有できないから「普通」というものは無いよね。という話が面白かった。考えだすと気が遠くなって寂しいようだけれど、違っているのが面白くて、それを認めていくのが豊かなことなんだよねと捉えることもできる。この後者の考えが、きっといい。「普通」という仮想に振り回されてばかりではいけない。

木曜日, 12月 06, 2007

いい娘だね

夜、早川義夫と鈴木亜紀のライブ。
「歌があふれてくる夜、ライブのあとはちょっとみんなで一杯!」へ。

音を出す前
言葉を出す前の間に
全身で
ピアノと
張りつめ、緩み、伸びて
"愛する勇気を持ち続けていようね" の
"ね"
で大きくなって、
目を見て歌を歌ってくる。

"いい娘だね
いい娘だね"

ふたりで座るピアノは、ベンチの上で楽しそう。
ずるいよと笑う よくばりな僕らは
それ故に傷つき、愛する。
何も無い空には何かある。
"それぞれの心のなかさ"
だよね。

当たり前のことをまっすぐに、恥ずかしいこともみんな
そのまま歌うことが、言葉にすることが、
どんなに難しく大切なことなんだろう。

http://www15.ocn.ne.jp/~h440/

http://suzukiaki.com/

水曜日, 12月 05, 2007

文句は言わないが、融通は効かない

改札で定期を入れたのにゲートが閉まった。自動販売機で百円入れたのにボタンが効かない。お昼の食券も出てこない。紙コップのコーヒーは、紙コップだけ出てこずに流れ去った。自動ドアは開かず、エレベーターは緊急停止する。ケータイの電波はどこも圏外だ。パソコンは宿命として凍りつく。さっきから照明がチカチカしている。原発の管理システムが狂い出したのではあるまいな。ATM が万札しか入っていないと表示が出ているので、何もできない。交差点の信号は、歩行者ボタンを押しても押さなくても同じ。他の信号と関連を持たせてあるらしく、ここで待つ僕には何も目を向けない。デジカメの画素も足りない。テレビの出演者らには目を隠す黒い横線が焼き付き、VHS ビデオはすぐにカビを生やす。DVD はたくさんの時間をかけて、たったほんの数秒の映像を映した。LD はどうなのだろう。ケータイの無かった頃を思い出せない。果たして生活は豊かになっていたのか。手数料がまたかさむ。それが私があのとき感じた嫌な気持ちの、焦る気持ちの原因だ。電線も凍てつくほどの今夜。修理に出していたケータイが返ってきた。アドレス帳も無事で安心した。これはバックアップを取っておかなくては。これはいつ壊れるか分からないただの機械だ。それを以て愛せよ。

火曜日, 12月 04, 2007

精神発生

ギャラリー矢田にて「精神発生 -PSYCHOGENESE-」展を見た。
電源から生える彼女の髪に戸惑うのが気持ちいい。
自分の利己的な意識を振るい落とそうと、うごめく。
そんなつまらないことなんて置いて、もっと面白いことがあるよと笑みを浮かべるだろう。

http://www.nzu.ac.jp/~souzou/

月曜日, 12月 03, 2007

きっと素敵なことになる

雨は止んでくれた。Novaia Liustra 展を見に行く。「新しいシャンデリア」が咲いている。TORICO は路上を呼び、ギャラリーを誘う。これを描く行為は慎重さを要すると聞く。その丁寧な思いは、きっと素敵なことになるという思いとなって、こめられ、見る者に広がってくる。それは咲きながら待っていた。インドで眠った犬はどんな夢を見てたのでしょう・・って、何かの美しい歌のように綴る。
ホットチャイとグルーワインをたくさん頂き、オープニングから帰る電車のなかで、同じ駅まで帰った 岩崎洋子さんの「記憶について」の文章を読ませてもらった。まっすぐで素敵な文章だった。絵画も文章と同じく思いがこめられていた。彼女らの出品する展覧会も今月にある。

http://www.vision.ss.is.nagoya-u.ac.jp/clas/

http://www.novaialiustra.com/

日曜日, 12月 02, 2007

明らかな論考としてのスタートライン

「作品について」という小見出しを付けるかどうかで全てが変わってくる。
詩なのか、概説なのか、関連文章なのか。
夜明け前にそれをまとめ、何かを見切った。

個展にお越しくださった皆様、どうもありがとうございます。
アーティストの中野克俊さんがレビューを書いてくださいました。
明らかな論考としてのスタートラインを思います。
身体が覚えている湿度や、色の有り様が感覚の根本をつくっているのだと。

http://d.hatena.ne.jp/knakano/20071202
(展示内容の紹介が含まれております)

http://www.youtube.com/watch?v=Z74m2mtqJQQ

土曜日, 12月 01, 2007

だから こうしているんだろうなと思う

個展「沼が無い」の初日を迎えた。
いつも展覧会の初日は、一気に見え隠れする気持ちで、落胆と歓喜の繰り返し。明らかになっていくのは、建築的な行為だ。
それが楽しくて、こうしているのだろうと思う。
作品を見る人にも、その楽しさが起こるかだ。

ギャラリー芽楽での ミニアチュール展パーティへ行く。
温かい料理とワインを頂く。はやくも来年の話が出てくる。
帰宅前に、市内でもう一軒。
「こうやって自分の物差しを明らかにしようとしているのかもしれない」
と聞く。
それはとても広くて、大切なものだから、こうしているんだろうなと思う。

http://www.gallery-garaku.ecnet.jp/current/index.html