月曜日, 2月 28, 2011

なんてことのない日常

確実に背景の要素もふんだんに取り入れてきている絵のほうが良かった。
顔だけだと、圧迫感があったと横井氏は言う。
画面の奥行き。
絵は窓で、その向こうに 風景がある。
絵を掛けることで喫茶店は広くなる。
店員がお客さんの注文を受けている絵が良かった。
なんてことのない日常があって。

日曜日, 2月 27, 2011

画家 横井彰氏の個展

金山の喫茶店、ブラジルコーヒーにて、横井彰氏の個展 見る。
店に常駐し、お客さんをパステルや水彩で描き 展示していくというもの。顔だけ描いていた絵は、次第に背景が大きくなって、構図、画面構成が現れてきていた。
絵がうまくなるとは、技術ではなく、規模と広がりを持っていくということを思う。
一時期、達者になった彼は マンネリも恐れただろうが、描き続けた。
今夜は会場でライヴもあり、友人らと見た。幾つかの歌い手が前に出てきて歌った。
最後に 横井〜!と声をあげる。
彼はずっと歌っているのを見て描いていて、僕はそれをコンパクトデジタルカメラの動画で撮っていた。彼が画面の中心に居続ける。

土曜日, 2月 26, 2011

叫ばなくてもいい力

高嶺格さんの作品についての話を聴く。映像作品の上映もまじえ、素晴らしかった。
「木村さん」は、社会的な言葉では定義できない感情を含んでいた。
ただ純粋に「すばらしいビデオが撮れた。こんなにすばらしいビデオが撮れるなんて」と感嘆する言葉が 叫ばなくてもいい力を持っている。

http://www.takaminet.com/

金曜日, 2月 25, 2011

告白

マーキー宅の地デジテレビで DVD「告白」(監督, 中島哲也/松たか子、岡田哲生、木村佳乃/2010)を見た。
テンポが極めて良く ぐいぐい引きつけられる。内容は過酷だが エンターテイメントに仕上げてある。
そしてこれは復讐劇のように見えて、教育者としての葛藤が存分に入った意欲的な提言を持っていると思った。どうしたらあやまちを犯した者は更正できるのか。
後悔を映像体験する。最後の数分間。
マーキーは二回目の鑑賞だったらしいけど、二人で息を飲んでいた。
そして全てが嘘かもしれない。

http://kokuhaku-shimasu.jp/

木曜日, 2月 24, 2011

意見の為

頭ごなしにいろんなものを決めてかかる文章を前に出され、憤慨する前に呆れ、なんとか訂正へと譲歩するのに疲弊し、トーンダウンする。負けていられないが 喧嘩になってはいけないというのがキモだ。意見の行き交いを行わんが為、自分も要求された仕事をこなしておかなければならない。

水曜日, 2月 23, 2011

BONUS TRUCK

TOKUZO にて East Broadway 。
ノイズとメロディアス。壊れていても優雅さが重なっていく。
そして BONUS TRUCK。
最後の前に呟いた。
テーブルの客席にいた我々はビールとフード類を継ぎ目無く頼んでいた。
僕らが沖さんのゼミに参加させてもらったり、ライヴを一緒にしたりしはじめてから三年ほど経っている。

http://www.eastbroadway.org/

火曜日, 2月 22, 2011

カンヅメに詰められたビッグマック二百円

夜 Mac のちに 朝マックという連続コンボ。アン・ハッピーセット。
食して少し元気。幸せの入り口や。

月曜日, 2月 21, 2011

燕はおしゃべりじゃない

燕湯に入ったから、ひねりなくそのまま 燕が飛び寄ったような軌道だ。翌朝には名古屋。ビル街を抜けて従事につく。そんなに使わなかったラップトップは、ここで帰宅しなくてもいいというスムーズさだけをもたらす為に重かった。スムーズさがもたらしたものは強固なカンヅメっぷり。家に帰れない。終わらせておかなければいけない事象の山積。単語に惑わされるな。ふらふらでハイになる。

日曜日, 2月 20, 2011

エクスクラメーション・トーキョ

朝はいつもカミーユが出て行く。夢のなかでも死闘をやっているようなのに。
ラストポエムという言葉が飛び交う同人誌を見せてもらう。
あおばさんの真空管ラジオがマクドナルドから乗り継ぎの電車で郊外へ流れて行く!
タラちゃんのように刈り上げて、美容院にて詩を読む。
はじめっから、東京では詩だ!
自分とは真横に町が流れて行く。人々の呟きは上下。
立体的になるには如何に?
熱湯から転げ落ち、ギブミーチョコレート忘れず骨は無いわけじゃあない!ダブルミーニングは無い!

土曜日, 2月 19, 2011

分解の音楽

見届けるには、色々な紙を並べて繋げて。
座っているはずの
向かわせる。

金曜日, 2月 18, 2011

聖プロポーズの冒険

探偵ナイトスクープ!ビックリマンシールを売って結婚資金にしてプロポーズを興味津々で見た。
依頼者は同い年だった。
僕はもうあんなにシールを持っていない。

ジンクリマンシールコレクション2011 春の弾 企画書
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マーク・結婚(教会の鐘のイメージ、もしくは文金高島田)
天使・聖プロポーズ
お守り・チャペルの助
悪魔・卒業デビル
春の弾ヘッド・金婚ブレイク(天使と悪魔の結婚)
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http://asahi.co.jp/php/knight-scoop/search/search.php?mode=result&oa_date=20110211

木曜日, 2月 17, 2011

アーティストは自称から始まって、呼ばれるようになる

愛知芸術文化センターの展望回廊より階下を望む。
「アーツチャレンジ2011」鑑賞。

渡辺一杉さんの作品。月の曲線を算出してそれを手で長いロール紙に書いていくというのが面白かった。机は火燵になっていて、火燵ごと位置が動いて行くというのも可笑しい。計算で終始しそうなところの行き着くところが温かいのが良いと思った。

地下通路に展示された 石堀礼子さんの作品は、畳を解放させている。
出会った人が 不可思議に思っても、すんなり受け入れられそうであった。
展示スペースで行うライヴのチラシが かっこいい。

愛知にて アーティストの発見が続きますように。

http://reitty.xxxxxxxx.jp/
http://arts-challenge.com/pf_watanabe.html

水曜日, 2月 16, 2011

アジアの画家が描いたという

事務室の壁に絵を掛けたのは良かった。
木の額に油絵は落ち着く。
おむすびを食べて、大垣の生チョコも頂いて、おかげで踏ん張って掃除が出来て、倉庫に眠っていた絵をユーシ君が額に入れてくれた。
天井が高くなったように見える。たった 15号くらいの絵でも。

火曜日, 2月 15, 2011

ここにいるもの

カレーと伊予かん。
英語で三文字、平仮名で二文字、漢字で一文字。
書いてくれて、行くよ。
夢は暗号じゃなく、ずっとここにいる。

日曜日, 2月 13, 2011

声変わりの日はいつか

三重は自分の故郷で、そんなに遠くはないのだけれど、帰ると名古屋とは空気は違って。東京はもっと速いだろう。どこでも同じ言葉で、詩の響きは変わらないのか。「声変わりの日」の展示が終わる。ちょうど三重県立美術館内にある県民ギャラリーで 恩師の倉岡先生が教えている 津東高校の美術部展が行われていて、ワークショップ以来の再会となった。描きたての油絵も見ることができた。

それから様々なことを話した。
自分がいま詩をやっていることは、絵から繋がっている。
だからいまこんなことができていると思う。
駅まで送ってもらう車中で、行き帰りを待つホームと携帯のコールで、思い出していた。

土曜日, 2月 12, 2011

ぼろぼろよりも

昨晩、覚王山の山山堂で 小林政広のライヴ。あがた森魚の飛び込み二曲。フライング発売の「俺の知らない内田裕也は 俺の知ってる宇宙の夕焼け」(2011) 歌い歩きを求める。赤色エレジーに泣く。ほんとうにぼろぼろ泣く。いっしょに行った山口氏に こんど、僕は天使ぢゃないよ かすよと話す。それは帰りに。夜は長く、小林政広の歌は、曲名を知らないが、どれも良かった。いろんなことがあったけど 君といられて良かった。と歌うのが温かかった。
今日はコインランドリーに行って、服が回っているのを見ながら 夕方で、一人になっていて。
「寒かったころ」(詞, 曲, 林ヒロシ/1975)の歌い出しを、ああ 確か。
もう見えなくなります
もう見えなくなります
口ずさみ、ああ こういうことかと、うなだれた。

仕事をしていくことでしか、ここからは出られない。
それを誓い、夜中に米を炊き、タモリ倶楽部を見ながら おむすびを握った。

金曜日, 2月 11, 2011

二ヶ月遅れのサンタクロース

「もし、君がいい子にしていたら美味しいケーキをあげよう。」英語で。

ドット絵のサンタクロース。会おうとするとネガ反転。
賛美歌は時が経っても聴こえるように。
愛は懺悔ではない。
そして彼は神ではない。
愛は自分の過去現在未来を全て信じる力だ。

木曜日, 2月 10, 2011

死ぬこともある

河川敷に黒い犬を放つ
あれは同じ横顔
同じつくりで犬になる
愛は誰を持って返って来る
愛は棒にも橋にもならない
どこまでいくだろう
どこまでいけるのだろう
死ななければ大丈夫!と、ある学生が言ったらしい。
いや、死ぬこともあるんだよ。
笑いごとにもならない。
黒い犬よ
返って来い
愛とともに土を掘り返せ
私たちのまだ通う筋肉の為に。

水曜日, 2月 09, 2011

夢の歩数

猫も歩けば棒に当たる。
ザッピングでどこまでいけるだろう。
君と僕が話すことは
歩数に限らないだろうか。
Bボタンを押すと道連れに話すことができるようになった今日びの冒険。それでもすぐに「‥」にはならない。確かめながらも思いを言うだろうから。
夢の歩数。
寝てばかりでまだ無い。
寝ながらも可愛いねと話される猫。ストーブの前の。

火曜日, 2月 08, 2011

「GARADGE SALE 2008-2011」100% OFF。

アトリエ引越しの季節を前に、不要品のリサイクル市を開始しておいて、場を作っておけば良いと思いつき、実行に移す。
「GARADGE SALE 2008-2011」100% OFF。

ただ積んでおくだけだとゴミ置き場になってしまうから わざわざチラシまで作って、店のように陳列させる。ある程度 目玉アイテムも放出する。書籍や、V-CD、画材。オモチャ。見事に喜んで貰っていくお客さんがいて、楽しい。
0円購入のお客さんだ。
次のチラシはデカデカと 0円と書いて、携帯電話業者みたいなのにしよう。二年縛りも何も無くて ホントに 0円 という皮肉めいた作り。なんて、誰に訴えているわけでもないけど、成立はさせていく。

月曜日, 2月 07, 2011

とりとめなくドラクエのリメイクについてなどを

「ドラゴンクエストⅣ -導かれし者たち-」(1990-2007)の DS 版をクリアーした。Ⅴ を買えば友人の某画家より Ⅳ が借りれるという約束を交わしていて、今年はじめに Ⅴを買い、クリアーしたのち Ⅳを借りていた。どちらも DS へのリメイク版であり、同じ会社が同時期に制作したもののようでグラフィック等が流用されていた。シリーズものなので違和感は無く、システムも無難なアレンジで全体的に手早く遊べるつくりになっていた。
DS は Ⅸ を遊ぶ為に昨年に購入し、次に手を出したのは Ⅴ なので、完全にドラクエ専用機になっている。ゲームボーイが流行ったときに持っていなかった自分は「ゲームは家でするものだ」という据え置き機派の感覚が根強くあり、DS も傍観していただけだったが、ドラクエ派である自分が Ⅸ の為に導入していたのである。Ⅸ のときはほとんど家でやっていて、オマケ機能のすれちがい通信を試していたくらいだったが(某写真家とすれちがい通信だけの為に DS を持参し合ったりしたから、試したくらいと書く以上のやりこみだったかも?)、Ⅴ、Ⅳ は電車移動時を中心によく外で遊んでいた。
DS 版には道具のアイコン表示があって、それがレイアウト状 見にくいなと当初思っていたが、移動時に画面を横目にするときなどは判別がしやすく、納得がいった。そしてレベル上げ等の単調な作業も全て移動時に片手間にできてしまっていた。
DS、PSP らモバイルゲーム機がもたらすゲームそのものの変化、ゲーマーの心理変化は大きいだろう。
Ⅳ、Ⅴ は、もともと据え置き機で作られたものだから、腰を据えて何か取り組む感じが、DS ではもっと軽くなっている。ゲーム内で語られる物語も、もっと軽くなる。Ⅴ の奴隷はもっと惨たらしく感じられ、Ⅳ の運命はもっと壮大に思えた。
いま、いざファミコンで冒険をはじめると、勇者たちの歩く足が遅いことに驚く。
DS はそそくさと速い。
その前のリメイクであるPS から速くなっているのかもしれないが、DS で 雑用の為に電車と駅を駆け抜けながら、同時に速く洞窟を駆け抜けてもいくと、自分も勇者も目的をこなしていくことができ、痛快ではあるが、そう、重くは無い。

クリアー後は強さのインフレ状態で、オマケ要素が追加されている。自分はクリアすると一気に醒める質で、もういいやとなる。Ⅸ はそれが顕著だった。オマケが多いと売り込んでいただけにそれはつまらなさを増幅させた。Ⅴ もすぐ止めた。ただ、Ⅳ は第五章で終わるところが、第六章になって真の悪が明らかになるという腑に落ちるエピローグのオマケだったので、触手が動いて最後までやった。真の悪を倒してからのオマケもあるらしいと知ったけど、そこはやはり醒めた。

Ⅳ は 導かれし者たちが集まってくる構造。世界中に散らばった町と鍵とアイテムの関連性、伏線の貼り方が絶妙である。ファミコン当時はあまり理解できなかったことを思う。
鳥山明の、あの躍動感のあるパッケージイラストは最高の構図だった。DS のイラストは版権的な問題なのか Ⅳ も Ⅴ も他の人の絵で、しかも張り合せただけで一枚の絵として作られておらずあんまりだ。そこもアレンジなのだな。いやこれは明らかに劣化だろう。

http://www.square-enix.co.jp/dragonquest/4to6/index.html
http://bit.ly/fwA7zA

日曜日, 2月 06, 2011

一緒に帰った人がいたと思う

乗り越えていくなかでは否定も起こりえる。健全な師と子の関係。それこそ芸術の学び舎であらんぞよとある巻物のような PDF 読み、すぐにそれが使用される。
地方の美術館が中央の作家で駆逐されていた時代に呆れるのはたやすい反応かもしれない。いまも地方では理解されぬまま若い世代が振興の名に駆逐しているとも言えるだろう。

言葉はやっぱり難しくて、それでも書きたくてと聞く。会話と綴り。
三者三様で日は過ぎる。
でも、実は単線で乗り換えているだけ。
走ったのにも関わらず、次の車両はものの五分で来た。降りると駅舎は貧困で煤けた広場になっている。電鉄会社によってこうも違う。
バスのちにまた単線へ。
どれも単線。
絵本の名店「メリーゴーランド」でお茶をする。
今日はずっとお茶をしている気分になる人らといる。

帰りのホームに着いた温泉行きの車両から降りて来たのは、偶然にも画家の伊藤宏先生だった。会うなり先日の感想と春の葉書を頂く。
満州からの帰りは、こうも寒かったのかと聞き続け、それでも生き続けてこられた話もあるらしかった。単線でも元気になり得た。一緒に帰った人がいたと思う。聞きたい。
先生が聞いた話は絵になって。木炭で綴らたのち、油で塗り固められた。

土曜日, 2月 05, 2011

イビツ

頑固という性格は全面が堅い石ではなく、堅い部分の裏側は異様に柔らかい。
シンプルに書いてしまえばイビツ。
イビツどうしで何かしようとするのがこの社会さ。
ソーシャルネットワークはイビツがベールに隠される場所で、噛み合ぬ形状を忘れても進めると錯覚する。
地デジのテレビが十万円も安く買えたとの騒ぎを聞いた。きっとフルハイビジョンのフルが消えたんだろうと思ったが、言わなくて良い。テレビになると頭突き気味で、金魚になると揺らぐものだから、どちらも綺麗に見えるさ。アナログ放送が終わってから買ったらもっと安いはず。自分もイビツで、地デジの話になるといつも言う。見えなくなる期間のことは考えていない。

金曜日, 2月 04, 2011

自らツールに囲まれた

少し暖かい空気に感じられる日だった。
部屋掃除と文章の直しを一通り行ない、珈琲を入れたらもう落ち着き過ぎてしまう。
夜は食べたら一度眠り、遅くに起きてネットをする。合間にアルジャジーラを見る。
迷惑メールフィルターが一手間で終える仕事を面倒にさせる。
よく聞くことだけれど、スパムの中に大事なメールが混ざってしまうのが怖い。大事なやり取りは読んでいるかどうかの確認が要るな。
メール届いた?って、電話をしてたりして、じゃあ最初から電話しろよと、言われそう。話すのと文面は違うけど。最後は手間を惜しまぬ人の力か。

停滞していたブログを一気に書いていき、ようやく現在形に追いついた。今回はいままでの停滞の中でも、最も止まってしまったと思う。三ヶ月くらい。思い出しながら書くことにも意義はあるのだが、些細なことはメモか写真か何かのきっかけがないと思い出せない。iPhoto で写真を見返したりもするが、今回は Twitter がメモの役割を果たしていた。呟きを基にブログへ構成し直した日も多い。Twitter の普及で、ブログから移項する人も多いが、自分は似て非なるものだと捉え、このまま続けていくつもり。ブログが停滞したときの備忘録なのは結果的なところ。
停滞はせず、瞬間の呟きと腰を据えた文章、その違いで 同じものごとを見ていきたい。

昨晩の豆まきの掃除し忘れたのが出て来た。豆自体が堅く縮こまっている。

木曜日, 2月 03, 2011

現代のコロシアム

エジプト騒乱に揺れる Twitter のタイムラインを追うなかで、暴動化する前にデモを止めることは出来なかったのかという Tweet を見て ハッとした。
革命を引き起こしたのが Twitter の功績ならば暴動化の責任もあるのだと。
「戦え!と画面を通して煽っていた我々に、暴動化するリスクは無い。安全なところにいて高揚しているだけなのは、書かれていたとおりまさしく現代のコロシアムだ。

http://twitter.com/#!/Odessa009/status/32848792688525312

水曜日, 2月 02, 2011

かいーの 日本の平和

昨日のデモは見ていて誇り高い印象だった。思い思いの言葉を掲げていた。一日で一気に変わった。ムバラクが次期選挙には出馬しないという宣言と それでは許さないと継続するデモ。それを経て、暴動化が起こってしまった。

「革命は非人道的である」という台詞を思い出していた。日本はやはり平和だ。日常生活をなぐり捨てたデモ行動という非常事態に出ないかたちででも、社会に 関わっていくことができるのは平和である。
その方法も自由に選ぶことができる。一日中ドラクエやることで周囲を楽しくさせる可能性も持っている。効果的ではないだろうが、可能性を持たせてくれている国の状態という時点で平和だ。もっとも、日本にもあるデモくらいして憤慨すべき問題は多くあるわけ で、巧妙に隠蔽されているとも言えるが。隠蔽しておくという方法で平和を人工的に作っているわけだ。

そんなの本当の平和じゃない!かもしれないが、隠蔽してでも平和の状態を作らないと、いきなり一気に平和にはできない。
自治は戦いだ。平和は常に疑われ、どこか後ろめたい。でも負けてはいけない。
革命は 最終手段過ぎて平和とはほど遠いところへ落下する。

アースマラソンから帰ってきた寛平ちゃんが明石家電視台に出ていて、何も変わらずに「かいーの」を見て、笑うというより、時が止まったように平和な気分になったのだ。

火曜日, 2月 01, 2011

面白く運動できるか?

チュジニアでのジャスミン革命が引き金となって、エジプトでも政府を倒そうとする動きが起こり、それらは Twitter や FaceBook がデモの呼びかけに活用されたこともあって、Twitter のタイムラインはエジプトでの動きで持ち切りだ。
そんななか、グループ魂のライヴに行ってきたというツィートを見つけ、その数文字が引き金になって、僕は「就職しやがれ!」(詞, 曲, 宮藤官九郎/2002)を思い出して検索した。
苦笑から開かれる傑作だと思う。
大真面目な煽動では限界が起こり、面白く運動できるかがキーになってくる。
「革命しやがれ!」と面白くできるのは高度な奇跡だ。

アルジャジーラの生放送見る。解放広場というところにすごい人。退陣要求の紙を掲げて。
200万人 のデモなんて、体験したことない。
いや、デモ経験自体ない。
人々が言葉を書いた紙をフロントガラスに貼るため、走る車を止めている。

http://www.youtube.com/watch?v=2Y7BAWbgzQE